読書の記録

読んだ本の記録や、自分の経験の記録などをのんびりと記します。

「女性の活躍促進に向けた取組み アイスランドの経験から学ぶ」NWECグローバルセミナーに行ってきた

修論の気晴らしにちょっと。

 

今年の9月か10月位に、

石川県金沢市で行われた日本女性会議に参加していた。

 

知り合いの教授から、自身が登壇することを話され

アカデミアの世界にいるのも時間に限りがあるので足を伸ばしたのである。

 

そこで、チラシとして配られたのが、

標題のグローバルセミナーのチラシ。

 

元々、アイスランドという国がなんとなく好きで、

(綺麗そうだな~っていう印象)

アイスランドの女性活躍促進ってなんだろう?」と

思い関心があって申し込みをした。

(あとから見ると、かなりの応募があったようでキャンセル待ちとかあったらしい)

 

当日になると、私の悪い癖で

「行くの面倒くさいな~」とか思っていたのだけれど(笑)

でも折角なので、

2限の授業発表が終わりご飯を食べて会場の四谷駅へ向かった。

 

講演を聞いた感想はというと、

 

すごく良かった!!!

 

アイスランドは現在、ジェンダーギャップ指数1位の国。

それなだけあって、

男女賃金同一法の制定などかなり男女平等の先進的な取り組みをしていたことが分かった。

 

また、現在はアイスランドの高校の幾つかの高校で

ジェンダー教育の授業が導入されているらしく、

基調講演者のアクティビストはその授業の必修科目化を目指していると語っていた。

 

すごい。

 

しかも、その必修科目化を目指したのは、

大学で社会学を先行していた高校教師らしい。

 

アイスランドも、

かつてはフェミニストという言葉がとてもスティグマとされていたらしい。

しかし、今では

フェミニスト=クールという図式が成立しているらしい。

 

私もかつて、

フェミニストという言葉に対してあんまりイメージが無かったのをそれで思い出した。

 

私も、大学院進学をふまえて、

ジェンダーをやりたいという気持ちが過去にあった。

 

しかし、

これ以上「過激」な思考に走ってしまったら

私は社会不適合者になってしまうのではないかと思い足を踏み直したのだ。

 

でも結局、

今の分野の研究も楽しいが

自分が日頃関心を持っているのは、ジェンダーのことなんだなと

この大学院2年間で痛感した。

 

ジェンダー

高校生までの私が意識していなかったもの。

そして、大学生になった私が痛感したもの。

そして、大学4年生になった私が再び痛感したもの。

 

この日本社会で女として生きることは不利だ、と思った。

 

大学1年生の時の私が言っていた言葉。

「性別の関係無い無機物になりたい」

女であるという呪いは、ずっと私にかかりっぱなしである。

 

勿論、

それから彼氏と出会い、交際してから

ああ、こんな私でも受け入れてくれる人がいるんだ

と思ったのことは、

すごく私を慰めてくれた。

 

でも、やはり

彼氏がいても私にふりかかるこの社会からの「女である」という呪いは

完全には解けなかった様に思う。

 

そりゃそうだろう。

私の世界は、彼氏だけで成り立っているわけではないのだから。

 

今回のセミナーの講演は、

まだ日本の状況が酷いものであることを再確認させてくれると同時に、

でもこれからの変革の希望もあるのだということを思い直させてくれたものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

チェーホフ「可愛い女・犬を連れた奥さん」

 

チェーホフ 作

神西清 訳

岩波文庫

「可愛い女・犬を連れた奥さん

 

ロシア文学の本を読みたいな、と思っていたのでとりあえずチェーホフから。

 

ロシア文学の本を読んだのは、

恐らくこれが初めてといっていいくらいだと思うのだけれど

結構面白く読めた。

 

読んだのは、「可愛い女」「犬を連れた奥さん」「イオ―ヌィチ」。

何か今まで読んだ本となにか違うかって言われるとなんだろう、

登場人物の性格とかが結構面白いなと思った。

 

例えば、イオ―ヌィチで出て来る主人公の男性は

でっぷり太ったなんか性格の悪そうな医者だし、

可愛い女に出て来る主人公の女性は、

自分の意見をまるでもたなくて結婚相手・交際相手が話すことを

そのまんま自分の意見として話して、いわゆる恋人とか夫がいないと生きていけない女性だった。

 

こういう登場人物の性格設定っていうのは、

かなり個性的だなと思った。

 

ちなみに、犬を連れた奥さんでは

ヤルタで会った婦人のことが忘れられなくて

モスクワに帰った後わざわざサンクトペテルブルグにまで会いに行っちゃうという。

いやそりゃ別れた浮気相手がいきなり劇場で声をかけてきたらびっくりするよなあ。

 

そうそう、

主人公だからといって非常に美化されているわけでもなく、

なんかすごく人間らしい、人間くさい感じの登場人物設定ってのがおもしろいなと思った。

 

 

 

 

牧野智和『自己啓発の時代 「自己」の文化社会学的探究』

勁草書房

2012年第1版第1刷発行

 

本の帯びに

「本当の私を知りたい」「自分を変えたい」「高めたい」…

 

といった言葉の羅列があって、面白そうで手にとった。

ちまちま読んでいたのだが、

あまり自分で完全にこの本の内容をきちんと理解出来たか少し不安なので

この本を読みながら考えたことをめも程度に書いていこうと思う。

 

本当の自分を知りたい、

といったときに個人的に思い浮かぶのが占いだ。

 

私は結構占いが好きである。

でも、占いって科学的に考えるとどういう立ち位置のものなのだろう。

占い=非科学的なもの、

という等式は割と簡単に想像が出来るが

意外に科学的根拠に基づいたものなのかなあ、占いって。

 

この著書を読んでいる時、

もし自分が本当の自分を知りたい、とか自分を変えたいと思った時どうするかを考えたら

多分インターネットの無料占い診断とか、「自分を変えたい」とかグーグル検索で打ち込んでそれで出てきた自己啓発関連のネット記事を読むだろうなと思った。

わざわざ自己啓発の本を買う、というお金を支払ってまで自己啓発を追求する人というのは、なんていうんだろう。どういう人なんだろうなあ~とか思ったりした。(やはり意識高くて、自分でお金を自由に使うことが出来る会社員とかなのだろうか)

 

そうそう、あとこの本を読んで思ったのが

コンサルタント」ってなんなんだろうねということだ。

コンサルタント、という職業はいつ頃から発生するようになったのだろうか。

 

最近はコンサルタント飽和が凄い様な気がしていて、

経営コンサルとかいうド王道のものもあれば、

なんか食べ物とかスポーツとか、すごく身近なものに関するコンサルタントもいる。

 

以前、コンサルティング会社にインターンをした際に、社内の人事の人がこう言っていたのを思い出す。

 

コンサルタントという職業には、資格がいりません。だから、割と誰でもコンサルタントを自称できちゃう」

 

あーそうなんだ、と思った。

だからこんなに最近なんだそのコンサル?みたいなコンサルタントがよくテレビに出ているのね、と思った。

 

私的には、コンサルタントこそが自己の内面のテクノロジー化によって生まれた職業なんじゃないかと思うんだけどな。どうだろう。

 

あと個人的に思ったのが、

雑誌研究って難しいなと思ったということ。

 

この本では、an・anとかプレジデントを使って分析をしているのだが、

それらの研究対象に接近する理由は分かるものの、

うーん、この雑誌の代表性ってどうなんだろう…とか思わないでも、ない。

 

あとそういえば、この本を手に取った間接的な要因となったのは

以前ニュージーランドから留学で帰ってきた時に、日本の本屋に自己啓発本がずらりと並んでいたのにびっくりしたからだ。

 

ニュージーランドの本屋ではまずこんな自己啓発本は無かった、ように思う。(今考えるとニュージーランドオークランドはなんか本屋がものすごく僅かしかなかったな)

 

でもこの本を見ると、アメリカとかの有名企業のCEOの本とかも言及されていて、

「あ、フーン。そうなんだ」とか思った。

 

もしかしたら、なんかこういう有名企業CEOの成功本とかって、結構国によってもそれくらい人気が出ているのか違うのかもな~とか思ったりした。

 

そんな感じです。

 

 

 

 

 

神谷悠介「ゲイカップルのワークライフバランス 男性同性愛者のパートナー関係・親密性・生活」

「ゲイカップルのワークライフバランス 男性同性愛者のパートナー関係・親密性・生活」

神谷悠

新曜社 2017年

 

 明けまして御目出とう御座います。今年も宜しくお願い致します。

 今年はもう少しこのブログを読書録として使っていきたいなあと思いまする。

 

 この本を見つけたのは、昨年の社会学大会の目録の後ろの方の広告を見たからでした。割とLGBTのことに関しても興味関心があり、「へえこんな本が出るんだな、面白そうだなあ」と思って先日ようやく出版されたのでアマゾンでポチリしました。

 以下、私の気になったとことか思ったことをぽちぽちと。あまり、読まれることを想定して書いてないので読みづらいかも。まあ、コメントとして。

 

p.32
ミシェル・フーコーは近代社会において同性愛者のアイデンティティが構築されるメカニズムを、医療化や近代国家による人口への関心に焦点を当てて解明した(Foucault 1976=1986)
ジョン・デミリオは家族を基盤とした家内経済から資本主義の自由労働システムの移行によって、異性愛家族の外部で同性への性愛的/情緒的関心に基づく個人生活が可能になったとしている(D’Emilio 1983=1997)

 このフーコーの方の、構築されるメカニズムと、医療化や近代国家といったマクロな視点がどう結びついたのだろう。研究をしている中で?
 このデミリオの研究も、同性での個人生活が可能になった要因も家内経済から資本主義の自由労働システムといったマクロな視点に結びつけることが出来たのだろう。

 勿論実際このフーコーとデミリオの論文を読まなければいけないとは思うのだけれど、自分が最近質的調査方法を学んでいく中でこの自分の研究は随分と「時」と「場所」と「対象」をとても制限した中で行われることだと思う様になった。まあだからといって研究の意義が無いとは思わないのだが、自分の研究がこの様なマクロなものに接続するにはどうすれば良いのだろうと思った。

p.50
調査票を用いてあらかじめ想定した変数のみで調査する方法では、想定されない変数による影響を分析することが不可能なため。

 量的調査法で用いられる変数生成のために役立つ質的調査。

 質的調査の利点というのは、幾つかあると思うのだが、やはり量的調査に用いられる変数を新たに発見することが出来るというのは質的調査法の良点の1つだと思った。

 やはり、質的調査を用いるのであれば、質的調査の利点をとことんまで生かすことが必要なのだろうなと思った。

 

p.79

ゲイカップルは家事を外部化しているかーにおいて、どの様な条件下において家事の外部化が進行するのか、しないのかに焦点をあてている。

 質問項目がなんだか、既存の従属変数に依存している気がする。質的調査法の利点というのは、既存の従属変数だけでなく新たな従属変数の存在を発見することではないのか。そもそも、欧米と日本では家事サービス化の進行程度に関しては大きな差異があるだろう。しかも、日本の方が同性愛者に対する偏見が相対的に強いのは明白だし、そんな状況下で他人をパートナーと共に居住する空間に入れることは容易なことではないだろう。
 それよりも、お金を何に使うかという所に質問を割けば良いのでは…?

p.100

 専業主婦になることを理想としている男性が出てきたが、何故彼がその様な理想を内面化する様になったのかが個人的には気になった。

p.106

仕事と愛情表現

 もっと質問項目も、知りたいこととダイレクトにつなげていくべきなのでは?と思った。例えば、「パートナーが沢山家事をしてくれると、大切にされていると思うか?」といった風に。掲載されている質問項目だけでは、「それは愛情表現というのか…?」と疑問だった。

 更に全体を通してだが、今のパートナーとだけでなく、過去に同居したパートナーとの家事分担の要因も聞けば良かったのではないか。その方が、家事分担の要因を更に見れる気がする。

 

 本著は、日本でも珍しくゲイカップルを対象とした、彼らのパートナー関係・親密性・生活を明らかにしたLGBT関連の研究ではかなり先駆的な研究になるのではないかと思う(あまり研究としてのLGBTの動向に関しては詳しくないのだが)。多分彼らの生活にアクセスするのも中々難しかったのではないかとも個人的に推察する。そんな中で子の様な研究が出来たのは素直に凄いなあと思った。更に、調査実施日や日時、依頼方法なども事細かに記していて、「あ~こんな感じなんだ」と質的研究手法をやっている1人として参考になる部分も多々あった。又、LGBT関連の周辺領域の研究紹介も具に記されていて、「なるほど、こんな感じで研究を網羅してんのか」と参考になった。

 

 ただ一方で、なんだか周辺領域の課題がぼかぼか出てきて、何だか結局どこを明らかにしてどこを明らかにしていないのか途中でよく分からなくなった。(いや、私の読解力にも問題あるとおもうのだけれど)それと、半構造化インタビューの中身を見たが、質的調査方法の利点である「語りの厚み」みたいなものがどこか薄っぺらく感じてしまった(いや、本当にすみません。私自身にも言えることなのだが)。恐らく研究の中身がかなりセンシティブなものであるからこそ、「削らなければならない部分」が多々あったのだろうと思う。しかし、それにしても質的調査法の良さを生かしきっているとはあまり思えなかった。というのも、他研究で用いられている従属変数を用いてインタビューを行っているからではないかと思う。勿論、この研究の第一義は「あまりよく知られていない日本のゲイカップルの生活の様相」を明らかにすることだと思うので、欧米の研究で用いられている従属変数を用いてそれを明らかにするだけでも研究の意義はあると思う。しかし、それだけでなく、この研究ならではの従属変数生成のカケラみたいなものを発見し、それをとっかかりに研究を進めていけばもっと面白くなったのでは?と考えもした。

 

とりあえず、こんな感じで感想終わり。

 

 

 

 

 

 

筒井淳也「結婚と家族のこれから 共働き社会の限界」②

第四章 「男女平等家族」がもたらすもの

 共働き社会の移行

 

 

 筒井は此処で、今まで「男性(稼ぎ手)と専業主婦」という夫婦の型が「男性も女性も働き手」へと社会が移行したのは、1つに経済が脱工業化したこと、もう1つに男性の雇用の不安定化が背景にあると言及しています(p.138)。

 

 正直、この事だけでも私にとっては非常に驚愕したというかなんというか…。何故なら、私はそもそも「性別を基準としない平等」的な、どちらかというと倫理的?視点から性別分業はオカシイと考えていたからです。つまり、男だから〇〇をして、女だから●●をする、という性を基準として物事を区別するのではなく、その性よりも前に「個の人間」を基盤にして、性を基準とした物事の区別の壁を取っ払いたいと考えていました。でも、この様な倫理的(倫理と呼んでいいのかは少し謎ですが)観点からではなく、上記の様ないわば経済的観点から社会が既存の性別分業から共働きという形態に移行するとは。勿論、家族は非常に経済的観点から構成されているものですから、「経済合理性」が一番物を言うのは当たり前っちゃあ当たり前なんですが…。

 

 少し話はそれてしまうかもしれませんが、「家族の形態」について私にインスピレーションというか、そういうものを最近与えてくれた漫画があります。

 

乙嫁語り 1巻 (HARTA COMIX)

 

乙嫁語り 1巻 (HARTA COMIX)

乙嫁語り 1巻 (HARTA COMIX)

 

  

 「乙嫁語り」という漫画で、マンガ大賞も受賞した漫画です。19世紀後半の中央アジアカスピ海を舞台にした遊牧民族だったり定住農耕民族の家族だったりを描いている漫画です(全巻持っているので貸して欲しい人がいたら友人知人限定で是非)。

 勿論、漫画なので美化されていたりしている部分は多々あると思います。しかし、この漫画での彼らの生活描写を通じて、自然と「男性は●●」をし「女性は〇〇」をするといった分業している姿を見て、もう一度自分の性別分業に対する嫌悪、というか。なんか考えをもう一度考え直そうと思った契機にもなりました。乙嫁語りの考察については次の機会で是非。

 

 もう1つ。言及しておきたいのが、面白いなと思ったのが最近私が読んだ本で、

桜井啓子著「イスラームを知る13 イランの宗教教育戦略 グローバル化と留学生」山川出版(2014年出版)です。ここでは、イスラームの宗教学院について詳しく書かれている本なのですが、この本の中で「女性の宗教教育」というテーマ下でイランの宗教学院のジェンダー観がこの様に紹介されているのです。

 

   「イランの宗教学院のジェンダー観の基礎となっているのは、男女は、生物学的な性差にもとづき、それぞれに異なった権利と義務を有するという考え方である。モハッタリー(一九二〇~七九)によると、「イスラームは男女が同じだという考えを受け入れないが、それは権利において男性が女性よりも優遇されていることを意味しない」という。ハーメイニーは、「イスラームは、人間の価値という点において男女は等しいとみなすが、与えられた役割という点では異なっているとみなす」と述べている」(桜井,2005,p.50)

 

 5万回目のウロコが落ちそうになった。

 成程、イスラームでは(勿論解釈によっても異なるのは重々承知である)性差によって、その期待役割は異なるがそれは権利の侵害だとか女性が低価値だとかに繋がっている訳ではないという。此処で思うのは、イスラームとでは「平等」の取り方が異なるのだということだ。男女という間には、生物学的な違いがあるのを元にしたうえで権利と義務が異なる。しかし、それはどちらの性に対して優劣があるという訳ではない。ふうむ。うーん。(ここら辺から口調が異なってくるんですが、此方の方が楽だし変更するのも面倒なのでこのままで)

 私が此処最近思うのは、「生物学的な性差」をどう私達は捉えていくべきなのだろうか?ということだ。私自身は、男女平等を掲げる人間だが、いわゆる「男」と「女」の間には身体的特徴、有する身体的器官が異なるのも事実だ。私は最近、これらの生物学的な差異に直視して、もう一度男女の間の「平等とは何か」を考える必要があるのではないかと考える。なんでそんなことを考えだしたのかというと、またもう一度漫画を紹介することになるのだが、以下の漫画を読んだためである。

 

 

大奥 1 (ジェッツコミックス)

大奥 1 (ジェッツコミックス)

 

  映画化されたこともあるため、割と知っている人も多いかと思うが、この漫画は簡単に言うと史実の大奥の男女逆転させた漫画である。成人男性にしかかからない病気が流行した江戸では、その罹患者が次々と亡くなりついに江戸における男女の人口比を変えてしまったのである。それで、将軍が女性、大奥に侍るのは男性という、いわゆる逆ハーレムな状態を形成していく…。

 しかし、此処で問題というか私が注目したのは、逆ハーレムって女性がイケメン男性を選び放題な訳だし、超楽しそうじゃん?と思っていたがどっこい、この漫画における将軍女性全く幸せそうではないということである。

 実際、筆者のよしながふみは(出典は明らかに出来ないのだが)この本について以下の様に述べたという。

    「この漫画で、一番性的虐待を受けているのは女性ですからね

 此処での漫画の女将軍は、子孫を残す為に子どもを産まなければならない。つまり、「どうやったって、子どもを産むのは男性ではなく女性」という「産む性である」という業から抜け出せない女性を(幾ら人口比が変わり、政治の要職に就けるのも社会で仕事をして一家を担う大黒柱が女性になったとしても!!)超絶リアルにこの仮想世界に落とし込んでいるのである。勿論、この仮想世界は特殊な事情をもって男女の人口比が逆転する、いわば有り得ない状況なのだが。それでも、そんな有り得ない事が起きたとしても、女性は生まれながらにして「産む性」であるということを私達読者に淡々と突きつけている気がしてならない。

 そこで、最近私はもう一度「産む性とは何か」ってところから全てを考えなおさなきゃいけないのでは?と思っているのである。(ちなみに、この大奥も非常に面白いので友人知人を限定に貸して欲しい人がいたら喜んで貸す)

 

 本文に戻ろう。次に、「日本の企業のなかには働きやすい環境を整えず、まだまだ「女性は実家通い前提」としているところがたくさんあるようです。」(p.140)

 この文章を読んで、私よりも早く社会人になった友人の一人がこの様なことを言っているのを思い出した。その友人は総合職で全国転勤型なのだが、その同期の女の子が肺属地が決まる前にこんなことを言っていたという。

 

   「女の子でも、容赦なく(地方に)飛ばすんだよ?

 そして、それを聞いた同期の男の子もそれに対して賛成で、「女の子にそんな地方に飛ばさなくてもなあ」といった要旨のことを言っていたようである。

 女の子でも、地方に飛ばすってどういうことなのだろうか。じゃあ、男の子ならば地方に転勤されて良いのだろうか。何故、女の子は地方に飛ばしちゃいけないのだろうか?女の子が地元にある親元を離れるのと、男の子が地元にある親元を離れるのと、何が異なるのだろうか?この日本社会には、やはり以前として「女の子は結婚まで親元の庇護にあるべき」という考えが未だ強く残っているのだろうか?

 

 もう1つ、私の経験談を話したい。これは、私が大学院受験を終え、先輩(ちなみに男性である)と将来の職業について話していた時だ。

   「お前は何歳まで働くつもりなの?」

と聞かれたので、

   「え?そりゃあ勿論、60歳とか、定年までですかね。」

と答えた。すると、

   「ふうん。そりゃ、お前はそうかもしれないけどさ。世の中にはそうじゃない奴もいるじゃん。女の人は、30歳くらいで辞めようとか考えている人もいるじゃん。でもさ、俺達(男性)はそうはいかないんだよ。(家族)養っていかなきゃいけないからさ。だから、この就活は結構重要なわけ」

 最初、私は先輩が何を言っているのか分からなかった。30歳で辞めるってどういう事?定年は60歳までじゃん。と思っていた。けれど、その後の言葉を聞いて、ああ結婚したら仕事を辞めるってことか、と思った。

 此処で2つの事を言いたい。

 1つは、やっぱりなんだかんだ言ったって、今の日本社会では「女性は結婚したら仕事を辞めてもいい」という考えがあるし、やっぱり一部の女性には最初から「結婚したら仕事を辞めてもいい」というオプションが与えられていると考えているということだ。いや、正直別に私はそれでも良いと思う。私の個人の考え方としては、自分と将来の夫とは、「私なりの価値基準で作られた平等」に基づいて仕事をし、家事をし、育児をしていきたい。けれど、勿論それが全てにおいて正な訳じゃない。社会は、異なる家族形成・形態を認めておくべきだ。ただ、私が言いたいのは「仕事を辞める」というオプションが女性にしか与えられていないという点に問題があると思うのだ。

男が専業主夫になったっていいじゃないか、結婚したら男が仕事を辞めていいじゃないか。

私はそのオプションの所在の不公平性に問題があると思うのだ。

 もう1つ。上の事と関連するが、このオプションの所在の不公平性によって、結局男性をも苦しめているのではないかということだ。上記の私の先輩の発言において、将来の家族の経済的支柱を担わなければならないという責任の重さから、先輩はどこか男性の職業選択の大変さを伝え、一方で相対的に大変ではない女性の職業選択について何処か文句を言っているようである。…まあ、こんなことは私が此処で改めて意見を言わずとも既に社会学・家族社会学の領域で何重も言われていることなのだが。

 しかし、それでも日本社会は変わらない。勿論、変革の波は少しずつ押し寄せてきている。しかし、それはとても遅々としているし、小さい。

 いまだに、この社会は「性」というものを絶対的な二項対立の概念として、世界を区別している。

 「性」って、そんなに重要な区別の基準なのか?

 私はそんなことを思わざるを得ない。

 

 さて、次。数ページ飛ばして、筒井は厚生労働白書のデータを持ってきて、「婚外子数の国際比較」を持ってきている。ちなみに、婚外子とは結婚関係にない男女の間に生まれた子どものことを指す(もしかしたらもっと厳密な説明があるかもしれないが、ここでは簡単に)。

 日本の圧倒的な婚外子の少なさ。ヨーロッパや北欧なんかでは、結婚せずともカップルで子どもを作っても手厚いサポートが国から施されるので、結婚せずとも子どもを産む人は多いのである。

 個人的には、社会学的な視点からこのヨーロッパやアメリカ、スウェーデンの中でも一体どの「社会的階層」に属するカップル同士が子どもを産んでいるのか気になるところではある。例えば、アメリカなどでは(分からない、個人的な推測に過ぎないのだが)社会的階層が低いカップルで子どもを出産するが、スウェーデンといった福祉国家では相対的に社会階層が高いカップルで子どもを出産したりといった国際間でも階層の違いとか存在しないのかなと思ったりする(誰か詳しい人がいたら教えて欲しい)。

 もう1つ、婚外子には直接関係しないかもしれないが、最近世間を騒がせている芸能人や議員の「不倫騒動」について言及したい。連日、ワイドショー等で芸能人や議員、お笑い芸人の不倫騒動についてひっきりなしに報道しているが、私はふとこの様子を見てこう思った。

 「すごいな、テレビのコメンテーターも視聴者の私達もまるで断罪者きどりだなあ」

 ワイドショーのリポーター達は、そしてその番組の街頭インタビューに答える一般人の人達は次々と厳しい言葉で、世間を騒がせている不倫について断罪していく。でも、私は思う。「私達にこんな、人を裁く権限などあるのだろうか」メディアを通して、番組の出演者と共に我々視聴者もいつの間にか公の場で、いや、社会といった方がいいだろうか、不倫を断罪する。

     しかし、正直私には何故あれほど周囲を巻き込んで彼らの不倫を断罪しなければならないのかが分からない。例えば、議員であれば税金を勝手に不倫相手とのホテル代に使ったとかならまだ分かる。税金は私達が払っているものだし、公共の利益を追求しなければならない議員のするべき行動ではないだろう。しかし、それ以外は?お笑い芸人の、芸能人の不倫は何故公の場で裁かれなければならないのだろう。彼らが裁かれるのは、私的領域に位置する自分の家族や不倫相手の家族とかであって、全く関係の無い私達ではないだろう。

    まあきっと、他人の罪を断罪する立場に自動的になれるというのは、優位な気分になれるだろうし気持ちの良いことでもあるのだろう。しかし、最近のメディアの不倫騒動はまるで集団リンチだ、と思う。

 

 以下、この本で面白いところだなと思ったのを2つほど。

 

後、フランスでは分割課税によって出生力も高いが、子どもを作れば作るほど税率が低いのでアメリカや北欧に比べれば女性活躍が少ない(p.195)とか、

北欧では男女で異なる職業に就く「性別職域分離」が進んでいるため、アメリカに比較してまだ民間企業は男性的である、つまり女性管理職数はアメリカに比べて低い(p.135)

というのは、私にとって非常に驚きで「本当かよ?!?!」という感じなので、また詳しくフランスや北欧の男女の働き方についての本とか読んだら此処で取り上げることにします。

 

もう1つ、私が最近興味をもっているのが「同類婚」についてで、これももっと深い話がしたいのでまた別の機会に個別で話が出来たらと。

 

 筒井淳也のこの本は、本当に面白く本来であれば全ての章を取り上げて私が思ったことを書き連ねていきたかったのだが、なにせもうこれ書くだけですげー疲れるからとりあえず私が言いたい!ってとこだけは此処にまとめ上げた。本当に面白い本なので、これもまた興味がある人がいたら友人知人を限定に是非貸し出したい。付箋ばりばり張ってすげー見にくいのを妥協してくれればだが。

 

 

筒井淳也「結婚と家族のこれから 共働き社会の限界」①

筒井淳也

「結婚と家族のこれから 共働き社会の限界」

光文社新書 2016年 第一刷発行

 

 大学院の友人に薦められて、「面白そうだな~」と思ってアマゾンで即購入した本。

 余談だけれど、この本を探しに割と大きな有名店の本屋に行ったら無くって。店員さんに「取り寄せたらどれくらいですか?」と尋ねると「まあ~水曜日(3日後)くらいですかねえ」と言われた。Amazon Primeに入会している私は、Amazonで購入すれば翌日に届くことを知っていたので、本屋で取り寄せはやめにしてAmazonで購入することにした。こういう事って、私以外の人でも割とありそうで今や本屋で「この本取り寄せしてくれませんか~?」ってことは激減しているのではないかと推測する。こういうのって、やっぱり本屋の収益減とかに繋がらないのかな、それとも本屋としてもこういう現状を鑑みて別の対策とかとってんのかな。

 という訳で、以下本の内容を第三章から取り上げて、私が思ったことをぼちぼち書いていこうと思います。

 

第三章 「家事分担」はもう古い?

 圧倒的不公平

 ここでは、筆者が家庭における家事〈分担〉(筆者が引用つけているのでママ)の実証研究を紹介しています。つまり、家庭における家事〈分担〉はどの様に決定されているのか?というものです。先行研究では、その規定要因は2つあると言及していて、1つは時間、もう1つは経済力だそうです。(つまり、長時間労働に従事しやすい夫に比べてそうでないことが多い妻の方が時間的余裕があるので、家事をする。もう1つは、長時間労働に従事しているため経済力を持っている男性は家庭での仕事である家事を免れることが出来る。)

 しかし、筆者は上記の2つの要因だけでは、日本の家事分担の不公平性を全て説明出来ていないと主張をしています。此処で私が一番衝撃的だったのは、筆者の調査によれば、

   「夫がすべて稼いでいる状態から、稼ぎの額が夫婦同じである状態まで妻が稼ぐようになっても、平均的には夫婦間の分担はあまり変わらなかったのです。」(p.103)

 

  ええ~~~変わらないんか~~い

 筆者は次の「不公平の理由」という題の下で上記のことを説明する手を幾つか紹介しています。

 ①イデオロギー仮説というもので、つまり性別分業「妻が家庭のことをして、夫が仕事をしに稼ぎにいく」という考えに対して肯定的な人間が多いのではないかということ。

 ②筆者はここでアメリカにおける研究も紹介していて、そこでは「敢えて女性が家事を手放さない」ということだそうです。つまり、「女性が「家庭の責任者」としてのアイデンティティを維持したいがために、容易には夫の参画を認めない」(p.106)ということだそうな。

 ③男性が「敢えて家事をしないことで、その男性役割を維持しよう」(p.106)ということ。つまり、男性が家事をしないことは、男性のアイデンティティ形成に寄与するという。

 

 まず、この②に関しては、最近私が見たニュースの記事を思い出しました。

headlines.yahoo.co.jp

 これは、9月2日のyahooニュース配信のものですが、この記事の下の方では電車内で赤ちゃんを抱っこしている男性に対して、恐らく育児を既に経験した中年高齢女性がこう言うです。

  「でもさ、やっぱり父親じゃダメね。お母さんだったら、あんな抱き方はしないはずだもの」(引用ママ)

 

 悪魔で私個人の意見だけれど、上記の発言からは以下のことが考えられると思っています。1つは、「女性がする育児という領域から父親を排除した方が良い」とする考えをこの女性が無意識下にあるのではないかということ。此処で注意しなければならないのは、確かにこの記事で紹介されている男性の育児も少し「問題」があるという事です。この記事の先には、この父親が抱えている子どもに対して最大限の配慮が出来ていないという点が指摘されています。しかしそうだとしても、それは「この父親一個人」の問題であって、それなのにこの男性を見ていた女性は「父親全て」に一般化をしてしまっています。そこには、やはり強い性別分業意識、いや縄張り意識があって、「お前はここに入る素質はそもそも無いのだ」と言っているような気がしてならないのです。

 もう1つは、上記のことから少し外れるが、この電車の光景はやはり男性の育児関与時間が未だ日本では少ないことを表しているのではないかということ。確かに、今までの日本では男性が子どもを電車の中で抱きかかえていて育児をしているなんてありえない光景でした。そこから考えると、やはり男性の育児参加時間は相対的には増加したことが言えるでしょう。しかし、この男性の子どもに対する配慮不足を見ていると、常日頃子どもに関与している時間が少ないことが起因しているのではないかと考えざるをえないのです。つまり、妻がいつもは面倒を見ていて、休日だから夫が面倒を見る(いや、良いとは思うんだけど!)。その全体的な育児参加時間の不公平性が(父親そのものの育児資格云々よりも)この夫の育児への配慮の無さを作りだしているのではないかと考えざるをえないのです。

 

 次、③についても私が最近読んだ記事と関連があるかと思い、以下紹介します。

gendai.ismedia.jp

 この記事ももんのすっごく面白くて、しかも今年9月13日に公開された超最新の記事。

 この記事は、上記の「家事」「育児」とは異なり、「介護」に関するものです。

この記事は、男性がいわゆる社会学の用語でいう「ケア労働(家事・育児・介護)」に携わりたくないのかを「支配」という観点からの説明を紹介しています。此処では、簡単に言うと、妻に自分がしたくない「ケア労働」を押し付けたい、「任せたい」という支配の志向が存在することを言及しています。そして、アメリカの老年学者、トニ・カラサンティ氏の興味深い調査を紹介し、日本でいういわゆる亭主関白親父は、妻に「ケア労働」をさせることで、そして老後にはその妻を介護し自分が妻への完全な「支配者」となるということを紹介しています。

 

 う~ん。こうしてみると、性別分業というイデオロギーがいかに人の中に落とし込まれているのかが分かる。やはり、こういうイデオロギーが、「家庭」「学校」「教育」「メディア」「会社」「社会」等を通して何度も再生産されることでこんなにも人の中から離れないものになっているのだろうか。

 しかし、後半の方で触れた「支配」の構造は非常に興味深くて。これはむしろ、女性が男性を「支配」する力は何故存在しないのだろう?と思う。そこには、性別分業というイデオロギーというよりも、「社会が規定する男性性(男らしさ)」の方に原因があるのかしら。とか考えたり。

 

 なぜ国は介入しないのか

 次の題「なぜ国は介入しないのか」、現代のリベラリズム「公的世界を公平にすれば、私的世界も公平になるだろう」に対して、フェミニズム政治哲学者のスーザン.M.オーキンの主張「政府は公的領域には介入しているのに、私的領域には何故介入しないのか!(だからこそ、私的領域における不公平は維持されているのだ)」を紹介しています。

 

 オーキンの言いたいことは分かるけれど、私個人の意見としては私的領域に国家が介入するのは断固反対です。家庭の在り方、個人的な意見、生き方、それらは悪魔で個人が自由の下に選択していくものであって、其処に「国家」が介入すると必ずや国家のコントロールしやすい「一元化した考え・思想」が押し付けられるのは容易に想像出来ます。しかも、日本の場合ではそもそも公的領域における不公平性に対して何の対処も施されていないのです。一部の動きを例外として、以前として異性愛を中心とした教育・メディア・行政(戸籍制度等)等々。まず公的領域から変わって出直してこいや。という感じ。

 

 という訳で、これが第三章読んだ感想です。

 

湯浅誠ら「若者と貧困 いま、ここからの希望を」

「若者と貧困 いま、ここからの希望を」

編著 湯浅誠 上間陽子 冨樫匡孝 仁平典宏

明石書店

2009年 初版発行

 

大学院前期の授業を振り返っていたら、いくつかの授業の資料にこの本が紹介されていたのでこの夏休みに読んでみようと思い、手に取ったのがこの本だった。

奇しくも(?)先日受けた授業と内容が合致している。

 

全体的な感想として、陳腐な言葉になるかもしれないが、私の目には中々映らない(映そうとしなかったのかもしれない)形で若者の貧困はこんなにも深刻になっているのだと感じた。

そういえば最近、母とニュースの話をしていて話がどんどん苛烈になっていった中で、母に言われた言葉を思い出す。「何故あんたは“下”の人のことをそこまで深刻に考える必要なんてないでしょ」といった言葉である。

一応前後には文脈があったわけで、文脈無しにこの言葉だけを抜き取るとあらぬ誤解が生まれるかもしれない。

この母の言葉には、彼女のある考えが内在している。

それをより具体的に言ってみると、いわゆる大企業に入れること、お金持ちになること、偏差値の高い大学に入ること、(そしてさらに彼女の考えの中では)そんな上記三つを満たした“良い”男を見つけるはこの世の中で“上”に属し、なおかつこれらは本人が“頑張ったから”手にした結果だというのだ。

言い換えれば、上記四つの反対は(例えば、中小企業に入る、貧乏、偏差値が低い大学に入る、いわゆる“ろくでもない”男と結婚するなど)、本人の努力を怠った結果であると結論付けることが多いのである。(しかし、改めてこう文字起こししてみると、とことん考え方だけはどこの時代の考え方だよ…と吃驚してしまう。母は一部、非常に化石のような考え方を持っているのだ)

 

さて、ここからがこの本の内容とつながる(はず)なのだが、

この日本社会は「本人の努力だけ」ではどうにも出来ないことがいくつも存在している。

この本の中で、派遣スパイラルに陥った男性のこんな言葉が載っている。

「自分なりに、がんばってきたつもりなんですけどね。もっとがんばらなきゃいけなかったのかな」(p.75)

そして、続いてその彼をリポートする著者の言葉がこうある。

「私自身も、取材開始当初当時はそう感じていなかったと言えば嘘になる。しかし彼のような若者たちのたどってきた人生をさかのぼると、自己責任とは言いがたい状況があるのではないか。」(p.76)

 

この本で、全体的に感じたのが、日本社会は性別ごとに非常に硬直的なライフコース(男:大学進学卒業→就業→定年 女:学校進学卒業→就業→結婚離職→専業主婦家事介護)が設定されていて、其処から外れたものは「異端」として排除される構造になっているということだ。

高校を中退したら、非正規雇用になったら、病気で会社を退職したら、夫と離婚したら…

 例を挙げるときりがないが、そんな人生にいつ起こるか分からないハプニングに巻き込まれたとき、コースを外れて崖下まで転落していく。

 そうではなくて、高校を中退しても、非正規雇用になっても、夫と離婚をしても、人間それぞれに最低限度の、そして少しでもゆとりのある生活を保障するべきだろう。

 この本で、佐々木隆治は湯浅誠の貧困の定義を紹介している(p.158)。

「貧困とは、単にお金がない状態ではなく、人間関係や金銭的ゆとりや精神的ゆとりといった「溜め」を欠いた状態である」

 貧困を脱却するために必要なのは、お金だけでなく人間関係の構築(具体的に、居場所とか)精神的なゆとりだということが、この湯浅の定義からいえるだろう。

しかし、単一的なライフコースの押し付けではなく、多様なライフコースを尊重しながら何重ものセーフティネットを張っていくのは、今後の日本社会で可能なのだろうか。少子高齢化のせいで、今後政府の税収は格段に減っていくはずである。

 そんな苦しい財政の中で、今後どうやっていけばよいのか考えるのが目下の課題だろう。