読書記録

読書の備忘録

村上春樹「スプートニクの恋人」

スプートニクの恋人

著者 村上春樹

講談社文庫

2001年 第一刷発行

 

 この本は確か、大学1年生の頃に村上春樹の小説を夢中で読んでいた頃に買ったんだと記憶している。

久し振りに読みたくなって、鞄の中に入れたら結局夢中になって読み終えてしまった(当初は電車に乗っている間の時間の有効活用のために読む筈だったんだけど)

 

以下、記憶に残しておきたいと思った作中の言葉

 

「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」

 すみれがフロッピーディスクに残した文書に綴られていた一節。

 この一節を読んで、「確かに」と思った。私達は、今までの自分達が得た経験や知識で私達の取り巻く世界を「理解」している訳だけれど(曲がりなりにも一応)、その理解が本当に正しいのかどうかは分からない。私が「理解」したと思ったことは、実は「誤解」なのかもしれない。また、現代に生きる私達が「共通理解」しているであろうと考えられているものも、実は「共通誤解」なのかもしれない。もっといえば、何億もの先人達が積み上げて来た「理解」の総体も(それが学術的なものにしろ、そうでないにしろ)実は「誤解」の総体なのかもしれない。

 最近、村上春樹の「国境の西、太陽の南」を読んだ時もこんな一節に目が留まった。

「あなたは私が考えていることを本当にわかっているの?」(確かこんな文章だったと思う)

 以上の二つの節を踏まえて、やっぱり、自分は何かを「理解」しているぞ、という傲慢さはきっと命取りなのだと思った。結局人間は基本的に1組の眼と、1つの脳しか所持していない。そんな不足でしかない身体で、世界の諸現象の真実を完璧に「理解」することは非常に難しいことなのだ。うんうん。

 

「大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ」

 主人公が、消えたすみれの行方を捜して頭の中で逡巡している時の一節。

 この一節を読んで「ううむ」と唸った(気分になった)。

 最近自分の知識不足を呪って、色々と本を読んでいたのだけれど。

 勿論本を読み知識を吸収することは非常に重要な一方で、そこで吸収しただけで「思考停止」状態に陥るのは意味の無いことだと改めて感じたのであった。大学院に入学してからというものの、自分に足りないと思うものを沢山感じるようになった。その内の一つが、「主体的に考えること」だった。私はあまりにも考えてなさすぎる、しかも主体的に。具体例を挙げていくと切りがないからここでは止めるが、今年の目標は日常生活のレベルから常によく考えるが私の目標の一つなのであった。

 

 村上春樹は私のお気に入りの作家の一人で、自分の部屋の本棚の一段は村上春樹の本で埋まっている(どれも文庫本で古本屋で100円くらいで買ったものばかり)。最近は本を読もうと思ったら大学の図書館で借りるばかりだったので、お金も特に払わない一方で自分の手元に置く本の数は圧倒的に激減した。そんな中で、家を出る際に「今日は何の本を電車の中で読もうかな」と思いながら自分の本棚の前に立って、今まで自分が読んできた本達を(またその本に付随する思い出或は歴史を)眺めるのも悪くないなと思った今日この頃なのである。