読書の記録

読んだ本の記録や、自分の経験の記録などをのんびりと記します。

筒井淳也「結婚と家族のこれから 共働き社会の限界」②

第四章 「男女平等家族」がもたらすもの

 共働き社会の移行

 

 

 筒井は此処で、今まで「男性(稼ぎ手)と専業主婦」という夫婦の型が「男性も女性も働き手」へと社会が移行したのは、1つに経済が脱工業化したこと、もう1つに男性の雇用の不安定化が背景にあると言及しています(p.138)。

 

 正直、この事だけでも私にとっては非常に驚愕したというかなんというか…。何故なら、私はそもそも「性別を基準としない平等」的な、どちらかというと倫理的?視点から性別分業はオカシイと考えていたからです。つまり、男だから〇〇をして、女だから●●をする、という性を基準として物事を区別するのではなく、その性よりも前に「個の人間」を基盤にして、性を基準とした物事の区別の壁を取っ払いたいと考えていました。でも、この様な倫理的(倫理と呼んでいいのかは少し謎ですが)観点からではなく、上記の様ないわば経済的観点から社会が既存の性別分業から共働きという形態に移行するとは。勿論、家族は非常に経済的観点から構成されているものですから、「経済合理性」が一番物を言うのは当たり前っちゃあ当たり前なんですが…。

 

 少し話はそれてしまうかもしれませんが、「家族の形態」について私にインスピレーションというか、そういうものを最近与えてくれた漫画があります。

 

乙嫁語り 1巻 (HARTA COMIX)

 

乙嫁語り 1巻 (HARTA COMIX)

乙嫁語り 1巻 (HARTA COMIX)

 

  

 「乙嫁語り」という漫画で、マンガ大賞も受賞した漫画です。19世紀後半の中央アジアカスピ海を舞台にした遊牧民族だったり定住農耕民族の家族だったりを描いている漫画です(全巻持っているので貸して欲しい人がいたら友人知人限定で是非)。

 勿論、漫画なので美化されていたりしている部分は多々あると思います。しかし、この漫画での彼らの生活描写を通じて、自然と「男性は●●」をし「女性は〇〇」をするといった分業している姿を見て、もう一度自分の性別分業に対する嫌悪、というか。なんか考えをもう一度考え直そうと思った契機にもなりました。乙嫁語りの考察については次の機会で是非。

 

 もう1つ。言及しておきたいのが、面白いなと思ったのが最近私が読んだ本で、

桜井啓子著「イスラームを知る13 イランの宗教教育戦略 グローバル化と留学生」山川出版(2014年出版)です。ここでは、イスラームの宗教学院について詳しく書かれている本なのですが、この本の中で「女性の宗教教育」というテーマ下でイランの宗教学院のジェンダー観がこの様に紹介されているのです。

 

   「イランの宗教学院のジェンダー観の基礎となっているのは、男女は、生物学的な性差にもとづき、それぞれに異なった権利と義務を有するという考え方である。モハッタリー(一九二〇~七九)によると、「イスラームは男女が同じだという考えを受け入れないが、それは権利において男性が女性よりも優遇されていることを意味しない」という。ハーメイニーは、「イスラームは、人間の価値という点において男女は等しいとみなすが、与えられた役割という点では異なっているとみなす」と述べている」(桜井,2005,p.50)

 

 5万回目のウロコが落ちそうになった。

 成程、イスラームでは(勿論解釈によっても異なるのは重々承知である)性差によって、その期待役割は異なるがそれは権利の侵害だとか女性が低価値だとかに繋がっている訳ではないという。此処で思うのは、イスラームとでは「平等」の取り方が異なるのだということだ。男女という間には、生物学的な違いがあるのを元にしたうえで権利と義務が異なる。しかし、それはどちらの性に対して優劣があるという訳ではない。ふうむ。うーん。(ここら辺から口調が異なってくるんですが、此方の方が楽だし変更するのも面倒なのでこのままで)

 私が此処最近思うのは、「生物学的な性差」をどう私達は捉えていくべきなのだろうか?ということだ。私自身は、男女平等を掲げる人間だが、いわゆる「男」と「女」の間には身体的特徴、有する身体的器官が異なるのも事実だ。私は最近、これらの生物学的な差異に直視して、もう一度男女の間の「平等とは何か」を考える必要があるのではないかと考える。なんでそんなことを考えだしたのかというと、またもう一度漫画を紹介することになるのだが、以下の漫画を読んだためである。

 

 

大奥 1 (ジェッツコミックス)

大奥 1 (ジェッツコミックス)

 

  映画化されたこともあるため、割と知っている人も多いかと思うが、この漫画は簡単に言うと史実の大奥の男女逆転させた漫画である。成人男性にしかかからない病気が流行した江戸では、その罹患者が次々と亡くなりついに江戸における男女の人口比を変えてしまったのである。それで、将軍が女性、大奥に侍るのは男性という、いわゆる逆ハーレムな状態を形成していく…。

 しかし、此処で問題というか私が注目したのは、逆ハーレムって女性がイケメン男性を選び放題な訳だし、超楽しそうじゃん?と思っていたがどっこい、この漫画における将軍女性全く幸せそうではないということである。

 実際、筆者のよしながふみは(出典は明らかに出来ないのだが)この本について以下の様に述べたという。

    「この漫画で、一番性的虐待を受けているのは女性ですからね

 此処での漫画の女将軍は、子孫を残す為に子どもを産まなければならない。つまり、「どうやったって、子どもを産むのは男性ではなく女性」という「産む性である」という業から抜け出せない女性を(幾ら人口比が変わり、政治の要職に就けるのも社会で仕事をして一家を担う大黒柱が女性になったとしても!!)超絶リアルにこの仮想世界に落とし込んでいるのである。勿論、この仮想世界は特殊な事情をもって男女の人口比が逆転する、いわば有り得ない状況なのだが。それでも、そんな有り得ない事が起きたとしても、女性は生まれながらにして「産む性」であるということを私達読者に淡々と突きつけている気がしてならない。

 そこで、最近私はもう一度「産む性とは何か」ってところから全てを考えなおさなきゃいけないのでは?と思っているのである。(ちなみに、この大奥も非常に面白いので友人知人を限定に貸して欲しい人がいたら喜んで貸す)

 

 本文に戻ろう。次に、「日本の企業のなかには働きやすい環境を整えず、まだまだ「女性は実家通い前提」としているところがたくさんあるようです。」(p.140)

 この文章を読んで、私よりも早く社会人になった友人の一人がこの様なことを言っているのを思い出した。その友人は総合職で全国転勤型なのだが、その同期の女の子が肺属地が決まる前にこんなことを言っていたという。

 

   「女の子でも、容赦なく(地方に)飛ばすんだよ?

 そして、それを聞いた同期の男の子もそれに対して賛成で、「女の子にそんな地方に飛ばさなくてもなあ」といった要旨のことを言っていたようである。

 女の子でも、地方に飛ばすってどういうことなのだろうか。じゃあ、男の子ならば地方に転勤されて良いのだろうか。何故、女の子は地方に飛ばしちゃいけないのだろうか?女の子が地元にある親元を離れるのと、男の子が地元にある親元を離れるのと、何が異なるのだろうか?この日本社会には、やはり以前として「女の子は結婚まで親元の庇護にあるべき」という考えが未だ強く残っているのだろうか?

 

 もう1つ、私の経験談を話したい。これは、私が大学院受験を終え、先輩(ちなみに男性である)と将来の職業について話していた時だ。

   「お前は何歳まで働くつもりなの?」

と聞かれたので、

   「え?そりゃあ勿論、60歳とか、定年までですかね。」

と答えた。すると、

   「ふうん。そりゃ、お前はそうかもしれないけどさ。世の中にはそうじゃない奴もいるじゃん。女の人は、30歳くらいで辞めようとか考えている人もいるじゃん。でもさ、俺達(男性)はそうはいかないんだよ。(家族)養っていかなきゃいけないからさ。だから、この就活は結構重要なわけ」

 最初、私は先輩が何を言っているのか分からなかった。30歳で辞めるってどういう事?定年は60歳までじゃん。と思っていた。けれど、その後の言葉を聞いて、ああ結婚したら仕事を辞めるってことか、と思った。

 此処で2つの事を言いたい。

 1つは、やっぱりなんだかんだ言ったって、今の日本社会では「女性は結婚したら仕事を辞めてもいい」という考えがあるし、やっぱり一部の女性には最初から「結婚したら仕事を辞めてもいい」というオプションが与えられていると考えているということだ。いや、正直別に私はそれでも良いと思う。私の個人の考え方としては、自分と将来の夫とは、「私なりの価値基準で作られた平等」に基づいて仕事をし、家事をし、育児をしていきたい。けれど、勿論それが全てにおいて正な訳じゃない。社会は、異なる家族形成・形態を認めておくべきだ。ただ、私が言いたいのは「仕事を辞める」というオプションが女性にしか与えられていないという点に問題があると思うのだ。

男が専業主夫になったっていいじゃないか、結婚したら男が仕事を辞めていいじゃないか。

私はそのオプションの所在の不公平性に問題があると思うのだ。

 もう1つ。上の事と関連するが、このオプションの所在の不公平性によって、結局男性をも苦しめているのではないかということだ。上記の私の先輩の発言において、将来の家族の経済的支柱を担わなければならないという責任の重さから、先輩はどこか男性の職業選択の大変さを伝え、一方で相対的に大変ではない女性の職業選択について何処か文句を言っているようである。…まあ、こんなことは私が此処で改めて意見を言わずとも既に社会学・家族社会学の領域で何重も言われていることなのだが。

 しかし、それでも日本社会は変わらない。勿論、変革の波は少しずつ押し寄せてきている。しかし、それはとても遅々としているし、小さい。

 いまだに、この社会は「性」というものを絶対的な二項対立の概念として、世界を区別している。

 「性」って、そんなに重要な区別の基準なのか?

 私はそんなことを思わざるを得ない。

 

 さて、次。数ページ飛ばして、筒井は厚生労働白書のデータを持ってきて、「婚外子数の国際比較」を持ってきている。ちなみに、婚外子とは結婚関係にない男女の間に生まれた子どものことを指す(もしかしたらもっと厳密な説明があるかもしれないが、ここでは簡単に)。

 日本の圧倒的な婚外子の少なさ。ヨーロッパや北欧なんかでは、結婚せずともカップルで子どもを作っても手厚いサポートが国から施されるので、結婚せずとも子どもを産む人は多いのである。

 個人的には、社会学的な視点からこのヨーロッパやアメリカ、スウェーデンの中でも一体どの「社会的階層」に属するカップル同士が子どもを産んでいるのか気になるところではある。例えば、アメリカなどでは(分からない、個人的な推測に過ぎないのだが)社会的階層が低いカップルで子どもを出産するが、スウェーデンといった福祉国家では相対的に社会階層が高いカップルで子どもを出産したりといった国際間でも階層の違いとか存在しないのかなと思ったりする(誰か詳しい人がいたら教えて欲しい)。

 もう1つ、婚外子には直接関係しないかもしれないが、最近世間を騒がせている芸能人や議員の「不倫騒動」について言及したい。連日、ワイドショー等で芸能人や議員、お笑い芸人の不倫騒動についてひっきりなしに報道しているが、私はふとこの様子を見てこう思った。

 「すごいな、テレビのコメンテーターも視聴者の私達もまるで断罪者きどりだなあ」

 ワイドショーのリポーター達は、そしてその番組の街頭インタビューに答える一般人の人達は次々と厳しい言葉で、世間を騒がせている不倫について断罪していく。でも、私は思う。「私達にこんな、人を裁く権限などあるのだろうか」メディアを通して、番組の出演者と共に我々視聴者もいつの間にか公の場で、いや、社会といった方がいいだろうか、不倫を断罪する。

     しかし、正直私には何故あれほど周囲を巻き込んで彼らの不倫を断罪しなければならないのかが分からない。例えば、議員であれば税金を勝手に不倫相手とのホテル代に使ったとかならまだ分かる。税金は私達が払っているものだし、公共の利益を追求しなければならない議員のするべき行動ではないだろう。しかし、それ以外は?お笑い芸人の、芸能人の不倫は何故公の場で裁かれなければならないのだろう。彼らが裁かれるのは、私的領域に位置する自分の家族や不倫相手の家族とかであって、全く関係の無い私達ではないだろう。

    まあきっと、他人の罪を断罪する立場に自動的になれるというのは、優位な気分になれるだろうし気持ちの良いことでもあるのだろう。しかし、最近のメディアの不倫騒動はまるで集団リンチだ、と思う。

 

 以下、この本で面白いところだなと思ったのを2つほど。

 

後、フランスでは分割課税によって出生力も高いが、子どもを作れば作るほど税率が低いのでアメリカや北欧に比べれば女性活躍が少ない(p.195)とか、

北欧では男女で異なる職業に就く「性別職域分離」が進んでいるため、アメリカに比較してまだ民間企業は男性的である、つまり女性管理職数はアメリカに比べて低い(p.135)

というのは、私にとって非常に驚きで「本当かよ?!?!」という感じなので、また詳しくフランスや北欧の男女の働き方についての本とか読んだら此処で取り上げることにします。

 

もう1つ、私が最近興味をもっているのが「同類婚」についてで、これももっと深い話がしたいのでまた別の機会に個別で話が出来たらと。

 

 筒井淳也のこの本は、本当に面白く本来であれば全ての章を取り上げて私が思ったことを書き連ねていきたかったのだが、なにせもうこれ書くだけですげー疲れるからとりあえず私が言いたい!ってとこだけは此処にまとめ上げた。本当に面白い本なので、これもまた興味がある人がいたら友人知人を限定に是非貸し出したい。付箋ばりばり張ってすげー見にくいのを妥協してくれればだが。