読書記録

読書の備忘録

最近考えたことをつらつら

【まず1つ目】

(私の就職活動の終わり)

 最近ようやく就職活動が終わり、研究活動にシフトしようとしている今日この頃。

就職活動は辛くもあり、というか辛さしかなかったが、第三志望だったものの第一志望業界のところに内々定を貰った為に「よし、まあここで良いだろう」という感じで終了した。終わるとあっけないもんだなーとも思ったりした。まあ、受け入ていた企業からどんどんとサイレント反応で、最後の最後には持ち駒がもう3つ位しかないという状況だったため、自分の意志で決めたというよりも「もうそこの企業にせざるをえなかった」という方が強かったためだろう。

 しかし、その企業から内々定を貰い(何度も内々定メールを確認した)自分でも色々考えたが、やはりこの企業が現時点では私にとってベストであろうという判断を下して、就職活動を終えた(ここに関しては、私の両親とかなりの対立があったのだが、そこに関しては今回は割愛したい。6月26日時点では、ラインによる母親の説得を行った結果、割と母親に関しては関係回復している)。というのも、当初自分が「ここだけは譲れねえ!」と決めていた就職活動の軸並びに、「こういう労働環境下で働きてえ!」という自分なりの基準にその企業が全て当てはまっているからだ。また、学部3年生の頃からちょっとずつ見てきた企業数はざっと70社。その中でも、現時点の自分が行きたいな~と思っていた第一志望業界の企業から内々定を貰えたという点で、まあ完璧でこそはないが、「悪くはない、いやむしろ上々」の結果だと考えている。

 

(就職活動をした社会学専攻の院生が考えたこと)

 別に大してことではないのだが、多くの企業の人事や働いている人と説明会や対談で話すと、割と多くの人が

 

「まあね、とりあえず入社しちゃって。こんなのをいうのもあれなんだけど、合わなかったら辞めればいいから(笑)」

 

と言っていた。この言葉一つをとっても、現在の日本社会において1つの会社にずっといることが当たり前ではなくなっているという状況が如実に分かるなあと感じた。こんなこと、多分バブル時代とか、一昔まえの就職活動では聞かなかったんじゃないかな。「1つの会社に40年間いるわけだから、会社選びは慎重にね!」とか言われたのではないか。

 

 次に、まあこれはよく言われると思うのだが、

 

「新卒就活は最終的に『ご縁』だから」。

 

 これは受けている企業の若手人事にも言われた言葉だ。ちょっと納得しそうになる自分がいるけど、敢えてツッコミたい。

 

「いやいや、縁(えん)ってなんだよ(笑)」

そんな良く分かんねえ曖昧なものに一番最初の職業を決めさせられてたまるかー!

てか、そんな「縁」とかって、外国の人とかにはなんて説明すんだよ。

 

 意外に、この「よく分かんねえ曖昧なもの」っていうのがかなり此処ではミソで、恐らくこの「縁=よく分かんねえ曖昧なもの」は、如実に新卒就職活動の採用基準の不明確さを表しているように感じてならない。

 

新卒就職活動の採用基準は、我々学生側には不明確だ。

 

幾ら面接対策をし、履歴書をちゃんと書いたとしても、落ちる時は落ちる。その時は、「その会社に自分は合わなかったんだ」と思ってその会社のことは諦める(実際、自分の所属大学のキャリアサポートの人にも、落ちたら「その会社に自分は合わなかったんだ」と思いなさいと言われた。)

 

でもさあ、それでも分からないよネ。

 

選考に落ちたとしても、何故落ちたのかの理由は明らかにされない。

いやでも、学生側からしたら何故落ちたかが明確であれば次の対策にも繋がるようなものだ(うちの会社のこと貴方の此処が合うか分からなかった。みたいなことを言われれば、「あーじゃあ自分はこの業界向いてないのかもな~」とか思って、早目に就職活動の動きも帰ることが出来るだろうに)

 

「縁」

 

そんな外面の良い言葉で、新卒就職活動の採用基準の不明確さを巧妙に隠しているつもりでいるのか。ぷんぷん。

 

【もう1つめ】

(謙虚さ)

 最近、コースで教育関連の有名な人が学校に来てくれたので、その人の話を聞きに行った(誰のことからは、同じコースの人には分かるだろう)。

 その人の話を聞いて、まず第一に私が持った印象は

 

「割とリベラルな考え方の人だな」

 

だった。様々な観点から右傾化していく現在の日本の教育を批判していた。私は、ふ~ん、あんな組織の中にもこういう、ちゃんとした人がいたんだな、と思った。

 しかし、次第にその人の話を聞いて、次に私が抱いた印象は

 

「なんか随分と不遜な言葉の使い方をする人だな」

 

だった。自分の考え方と組織の考え方が衝突した際、何故貴方はその仕事を続けられたのかというような質問を学生が尋ねた時に、「とりあえず、自分より馬鹿な人がこの仕事をやるよりは自分がやる方がましだと思って」と言っていたり、またある特定思想を持った人達のことを「あの人達は頭が悪いですよ」と言っていた。

その時、自分の中に妙な違和を感じた。

 

そんな時、今日以下の様なツイートを自分のTwitterのタイムラインで見たので引用させてもらう。

 

 

「ぼくでなければいけないから」ではなく、「誰でもいいけどぼくがやらせてもらってる」

 

もうこの言葉だ!としか言いようの無かった。

どんなに、その仕事に就くことが難しく、やっていること自体が難しくてもこの様な態度を忘れてはいけないんじゃないかなあと個人的には思った。

 

また、これは私自身の修士研究にも言えることで、

これは私でなければいけないから、というより本当に「私がやらせてもらっているのだ」。このやらせてもらっている、という態度は当事者と関わる上で絶対に忘れてはならないことではないかと思っている。

 

先ほどの話に戻る。「あの人達は頭悪いですよ」という言葉にどれだけの差別的表現が含まれているだろうか。

 

そりゃ、東京大学を学部から入学した貴方にとったら、日本社会の大半の人達が愚かに見えるだろう。

しかし、そういった無意識に内面化しているエリート思想、もっといえば選民思想、差別思想が、私には現代日本の現在の社会の分断の元に思えてならない。

 

その発言を聞いた時、私はクラス中を見回した。

此処には、東京大学の学部生や東京大学の大学院生、東京大学の教授などが肩を並べている。

 

私も含め、此処にいる全員が、社会を研究する上では「外れ値」扱いをされる(つまり、日本社会の全体像からは少し外れた位置に存在している)ことについて、もう少し意識的にならなければならないんだよなあ、と思ったのでした。

 

【もう1つ】

(言語と、)

 

英語が出来る、だけじゃ意味が無いんだよなあと最近常々実感している。

私はこのことについて恥ずかしいことだが、最近まで誤解をしていた。

英語が出来るってのはかなりのアドバンテージなんだと自分では思っていた。

いや、確かに英語が出来ることで、英語の論文や本も読めるし、簡単な日常会話だったら英語を話す人とコミュニケーションがとれるし。それらは間違いなくアドバンテージだ。

けど、最近思うのは、英語という言語は結局「器」なのだということ。

その器に何か乗せるものが無いと、結局器だけ持っていてもそれはただの「空の器」なのだ。

乗せるものは何でもよい、

自分の専攻している学問、自分の好きなスポーツ・楽器、自分の好きな趣味、自分のしている仕事内容…などなど。

 

私は今まで、器を手に入れることばかりに躍起になっていた。

その結果、そこに乗せるものに頓着しないようになっていたのだ。

今更になって、この様だ。情けない。いや、社会人になる前に気づけて良かったな。

 

ところで、私はものすごく飽きっぽい。

とにかく飽きっぽい。

飽きっぽい上に、集中力がない。

 

だからこそ、これまで習い事なども途中で投げ出してばかりで

全く身につかなかった。これは良くなかったなーとか思っている。

 

新しいことにチャレンジするのは好きだ。

しかし、新しいことの一番最初の「甘くておいしい部分」だけを齧って、あとはポイッと捨ててしまう。

 

なんでだろうなあ。

恋人やパートナーに関してだと、私は1人の人に対してかなり「ジックリ」タイプなのに、何故趣味とか学問に関しては「次から次へと新しいものを」タイプなのだろう。

 

一貫してくれよ、そこは。

まあ、恋人やパートナーに関しては「何故変えないのか?」と聞かれたら

「新しい人に手を出して、現状のパートナーとの関係性まで構築していくのが面倒くさい」のと「新しい人に別に手を出す必要のないほど、現状のパートナーに満足している」という2つが挙げられるだろう(後半惚気てしまった)。

 

そうだ、私はめんどくさがりでもあるんだなあ。

でも、新しい学問とか趣味に手を出すのはめんどくさいとは思わない。

 

新しいものに手を出す必要のないほど、現状に満足しているに関しては

あーうんまあそうね、パートナーに関してはそうねって感じだ。

思えば、今の交際相手と付き合って4年位経つが今振り返ってみると、交際する上で相手と違ってめんどくさくなるポイントがあまり発生しない相手だったなと思う。

 

そのめんどくさくなるポイントはまず第一に、連絡頻度。

相手と自分の連絡頻度が少しでも食い違うと、これまたメンドクサイのだ。

食い違った時の妥協点を探り、お互いが合わせなければならなくなるのも結構な苦労だ。

 

あとは、関連して遠距離・近距離問わずデートの理想的頻度とかね。

これも食い違うと悲惨だ。

 

ここら辺に関して、現状の交際相手と衝突することはほぼなかった。

どちらも多分めんどくさがりで、別に毎日連絡しなくてもいーしみたいなタイプだった。まあデートに関してもそうだった様な気もする。いや、多分考えてみると向こうが割合私の要求することに柔軟に対応していたからかもしれんナ。

でも割と性格が似たもの同士で、お互いにお互いのことを過干渉することが嫌いなタイプだからこそ馬が合ったのかもしれない(しかし、向こうが潔癖症の気があって私が死ぬほどズボラなところには毎度世界大戦並の火種を感じざるをえない)。

 

以前、仲の良い友人の1人に、「一番最初の交際相手で、そんなにタイプが合う人と付き合えるのは奇跡的」と言われたことがある。

そうかもしれない。

 

だって、そもそも最初に今の交際相手と物理的に出会った時、この人は私とウマが合いそうだな~みたいななんてこれっぽちも思っちゃいなかった。

 

ただ単に、頭良さそう、肌白い、真面目そう、顔好みダナーで好きになったし。

あんまそこらへん戦略的に考えてなかったナ。

 

だからこそ、友達の「新たな良い相手を見つけるにはどうしたら」とか上記に記した「メンドクサイポイントが食い違った、どう対応しよう」かという悩みにイマイチ十分話される相手やくとして役不足となってしまう感があるんだろうな~とか思う。

 

話がずれた。

 

そんな馬の合う人を見つけられたのに、学問や趣味に至っては「これだーーー!」というものと出会っていない。いや、出会ったのかもしれないが、なんかしらの形で水を与えず、子葉しか出ていない状態だ。

今後はというか、この20代は、自分のライフワークとなるものを見つけること。

新たな挑戦をしても良いが、自分の得意なものを自覚してそれに努めて伸ばしていこうと思う。

 

【最後に】

(もう研究しないの?)

 

博士課程に進むことは、大学院に進学する時から考えてはいなかった。

でも、就職活動の時もやっぱり博士進学は考えなかった。

それには幾つか理由がある。

 

1つは、家にまじで金がないこと。

無い訳じゃあないんだが、私が一人っ子アンド両親が無趣味で子どもにしか金使わないみたいな状況で私が割と自由に家のお金を使っているという状況なのだ。

この状況がいつまでも続くわけじゃないってことは自分でも分かっている。

しかも実際、父が定年退職して、元々安い給料が更に安くなり、しかも父は癌に罹患して治療費も出さなきゃいけない。

そんなことを考えたら、とりあえず私には経済的自立が何より優先事項だった。

 

1つは、研究というより勉強が好きなこと。

研究って、多分学問の新たな知を発見していくことだと思うのだが(すごくざっくばらんに言うとだが)、私はそれよりかは既存の自分の知らない知を学ぶのが好きなんだなーと大学院に進学して再確認した。これは割と大きい。

 

1つは、まあとりあえず社会で働きたいなと思ったこと。

働いてお金がもらえる。

それはそれで面白そうだなーと思った。

博士進学した後で、通常の民間企業に就職するのは文系じゃまず難しい。

社会人経験を積みたいなら、まあ今出るしかないだろうっていうこと。

 

あともう1つは。

自分が今当事者研究に関わっている中で、「研究ってこんなに難しいんだ」と強く感じたことだ。これは、私が当事者・マイノリティ研究に関わっているということが強く理由に挙げられるかもしれない。

 

有名な社会学者の岸政彦先生も多分どこかで言っていたと思うのだが、

当事者の生活に入っていく研究者のする行為はある意味で当事者にとって暴力行為なのだということ。

 

何より、私はその当事者の当事者たる部分に数カ月、数週間、または1日の数時間しか関わらないが、

その当事者の人たちにとって、当事者たる部分は私の様にある恣意的な時間のみに関わるものではない。一日中、24時間、その一生関わっていくものなのだ。

 

その非対称性に、

正直私はどう向き合えば良いのか分からなかった。いや、今でも分からない。

 

私は、自由にスイッチングが出来る。

研究者として、当事者研究に関わる時と。

仲のいい友人と遊ぶ時と。

その2つが交わることは殆どない。

 

しかし、当事者にとって、その様なスイッチングは無い。

ある時も、どの瞬間も、その当事者が当事者たる部分と付き合いながら生きている。

(当事者という言い方はここでは申し訳ないが、便宜上用いている)

 

岸政彦先生は、どこかで博士論文を書き終えた後、数年間何も書くことが出来なかったといっていた。

 

私はすごく共感する。いや、修士論文も書いてないお前に何がわかるという感じだが、

それだけ「他者が他者を描写する」という行為は難しいものなのだ。

 

私も同様に他者を描写する。

 

しかし、私が他者を描写する時、

私の狭隘な脳の理解力で他者を理解しようとし

私の貧困な語彙力で他者を表現しようとする時、

他者の大事な何かを損なわせているのではないかと思わざるを得ない。

 

研究という行為の暴力性。

 

私は正直、それに向き合いながらこれからも研究をしていくのは難しいと思った。

 

 

なので、今回は博士進学は見送ったわけだけれど、

別に将来博士進学する可能性はある。

 

まあなんとなくそう思うだけなのだけど、そんな予感がするのだ。

結局私は学問は好きだから、また思い直して大学院に入りなおすかもしれない。

それはそれで良いと思う。

 

その時までに、自分の人生のライフワーク的なものを見つけられればなと思う。

これをやるために自分は生まれてきたんだ!位のものを。