フランツ・ファノン「黒い皮膚・白い仮面」
「黒い皮膚・白い仮面」
海老坂武・加藤晴久訳
市立図書館で借りた「ジェンダー・スタディーズ」に紹介されていたこの本。
試しに、同じ市立図書館で探してみたら、この本自体があったので
読み始めた。(読むのに時間がかかって4週間もかかってしまった)
この本を読んで、全体を通して感じたのは
とんでもなく根深い黒人差別の問題だった。
こうして字にしてしまうと、
とてもありきたりというか、陳腐な感じになってしまうのが歯がゆいけれど。
勿論、今まで黒人差別に関して全く知らなかったわけではない。
学校の歴史の時間を通して、特に高校の世界史の勉強を通して
黒人が奴隷として、人間扱いをされずに
差別され、搾取され、時として殺されてきたことを「事実」として知っている。
けれど、このファノンの本を通して、
その字面だけの黒人差別の「事実」に、
リアルすぎるほどの血肉が通うのを感じた。
しかもただの血肉ではない、ドス黒い、悲痛なほどドス黒い血肉を、だ。
たまたま、この本を読んでいる最中に、
日本のお笑い芸人が某有名な手にスプレイヤーの肌の色を揶揄い
それを批判され謝罪に至ったということが起きた。
謝罪をしたお笑い芸人には、全く悪気が無かったことはだけはわかる。
しかし、やはり彼女たちが今回取り上げた肌の色を揶揄するお笑いには以下の2点で問題があるだろう。
1つは、皮膚や顔など生来的なものを揶揄するのは極めてナンセンス、というより非常識だし、極めて不躾で失礼だということだ。
日本のお笑いでは、いまだに他人の身体を揶揄して「デブ」や「ブス」、「ハゲ」といった言葉が使われる。
しかし、顔や身体といった生来的なものに関してそれを笑う種にするべきではいのだ。
(この問題に関しては、私も別の記事で取り上げたい。
私は、普段人の身体を笑いの種にすることはない。
けれど、最近自分が同等のことをしてしまったことに気づき、激しく自己嫌悪に陥った。
日本では、ルッキズム的な物の見方が至るところに蔓延っており、
私も時々、そのルッキズム的な考え方をしていることに
時々気づいてしまいこの見方をどのように乗り越えるべきなのか考えあぐねている)
もう1つは、肌の色の問題というのは、日本で考えられている以上に
敏感な問題だということだ。
なぜ敏感な問題なのかというと、明らかに、そして確実に、
その肌の色を理由とした考えるも無惨な出来事とその積み重ねが歴史として実際に存在しており
そのような「過ち」を二度とおこしてはいけない、その教訓だからだ。
(あまりうまく書けないけれど)
ファノンの記したこの本を読むと、
いかに「黒い肌」を理由とした黒人差別が
彼の出身国の宗主国だったフランスの人々や、
彼の出身国であるアンティル島の人々の
心や意識、態度全てに深く内面化・身体化されていて、
フランス人からも、またアンティル島の人々自身からも
かれらの生まれつきの「黒い肌」が悲しいまでに貶められ侮辱され憎まれて
きたのかが悲痛なほどわかってくる。
私はこの本を読んで、
「黒い肌」に対する「差別」が(実際には肌の色の違いで、人の間に違いはないはずなのに)これほどまで人の意識や態度、心、そして彼らが住む社会生活空間にまで
蔓延っていた当時に恐れを感じた。
しかし、同時にそれは
今私が存在しているこの社会自身も、
恐ろしい見えないヴェール
に包みこまれていて、知らず知らずそこに生きる人々の首をゆるやかに締めているのかもしれないと思った。
以下、興味深かった部分をとりだす。
(p.109)「私は、主観的な体験も、他人によって理解されうると心から信じている。であるから、黒人問題は、私の、私だけの問題である、と言って身をのり出し、研究し始める気はまったくない。だが、マノニ氏は、白人に対する黒い皮膚の人間の絶望を
内側から感じとろうとはしなかったように思われるのだ。この研究の中で私は、黒人の悲惨に触れるように努めた。感覚的に、また感情的に。私は客観的であろうとは望まなかった。その上、それは間違っている。私には、客観的であることはできなかったのだ。」
(p.113)(エメ・セゼール『植民地主義論』p.14-15より引用)
「…それはナチズムのせいなのだが、それはそうなのだが、その犠牲者となる前に彼ら自身共犯者であったということを。このナチズムを堪え忍ぶ前に指示したということを、これを許し、これに目をつぶり、それまでは非ヨーロッパ民族にしか適用されてこなかったのでこれをあらためて承認したということを。このナチズムを育てたのは彼らであり、彼らに責任があるということを。」
(p.114)「植民地者は、《少数者》として暮らしているにもかかわらず、劣等化されているとは感じたにのである。マルチニック島には二〇〇人の白人がおり、彼らは三〇万の有色ひとよりも自分たちは優れていると思っている。」
(p.132)「私は私の身体、私の人種、私の父祖の責任を同時に負っていた。私は自分の身体の上に客観的なまなざしを注いだ。私の肌の黒さを、私の人種的な特徴を発見した。―そして、人食い、精神遅滞、物神崇拝、人種的欠陥、奴隷承認といった言葉が耳をつんじざいた。そして、とくに、そうだ、とくにあの「おいしいバナニアあるよ」が。」
(p.136)「とはいえユダヤ人はつぢゃ人であることを知られずにいることもできる
彼は彼が現にそれであるところのものになりきってしまってはいない。希望し、期待することができる。最終的には彼の行為、彼の行動が決めてとなる。彼は白人である。根拠の薄弱ないくつかの特徴を別にすれば、ひとに気づかれずに済むことができるのだ。(…)私にはいかなるチャンスも認められない。私は外部から多元的に決定されているのだ。私は他人が私について抱く《観念》の奴隷ではない。私のみかけの奴隷なのだ。」
(p.142)「反ユダヤ主義者の態度が二グロ嫌いの態度と似ているというのは、最初は意外に思えるかも知れぬ。(…)わが同胞に課せられた運命に対して、私は自分の身心両面において責任がるという意味で。」
(p.163)「劣等感なのか?いや、非在感だ。罪は黒い、美徳が白であるように。」
(p.172)「だが、ひとたびヨーロッパに行けば、自分の運命を考え直さなけれなならなくなるだろう。二グロは、フランスでは自分の国であるのに、自分が他のフランス人と違っていることを感じるだろうからである。二グロがみずから劣等感を抱くからさ、と決めこむものもあった。事実は、劣等感を抱かせられるのだ。アンティル諸島の子どもは白人の同国人と共に生きることを絶えず求められているフランス人なのである。ところがアンティルの家族は民族的構造、つまりフランス的構造、ヨーロッパ的構造といかなる連関も持っていない。そこで、アンティル人は自分の家族かヨーロッパ社会かを選択をしなければならなくなる。換言すれば、社会ー白人社会、文明社会ーにおのぼりする個人は、家族ー黒人の家族、未開家族ーを排斥する方向に向かうのだ。」
(p.183)「ひとはユダヤ人に警戒する。ユダヤ人は冨を所有したり、枢要のポストを占めたりしようと狙っているからである。ところが、二グロは生殖に固着している。」
(p.197)「これは反応現象の好例である。ユダヤ人は反ユダヤ主義に対する反応としてみずから反ユダヤ主義者となるのだ。」
(p.203)「ルネ・マランのように、フランスで生活し、人種偏見に満ちたヨーロッパの神話と先入見を呼吸し嚥下し、そのようなヨーロッパの集団的無意識を同化してしまた二グロは、自分を観察した場合、己れのうちに二グロに対する憎悪しか認めることができないであろう。(…)ヨーロッパにおいては、<悪>は黒人によって表象されているという命題は理解されうるであろうか?」
(p.206)「アンティルの黒人はこの文化的強制の奴隷である。かつて彼らは白人によって奴隷にされた。今は自分を奴隷化する。二グロはあらゆる意味において白人文明の犠牲者である。」
(p.249)「黒人であるこの私の欲することはただひとつ。道具に人間を支配させてはならぬこと。人間による人間の、つまり他者による私の奴隷化が永遠に止むこと。彼がどこにいようが、人間を発見し人間を求めることがこの私に許されるべきこと。(…)人間が人間的世界の理想的存在条件を創造することができるのは、自己回復と自己検討の努力によってである。己れの自由の不断の緊張によってである。」
最終章の最後のページには、
ファノンの黒人としての抑圧されてきた歴史の中に自分を見出すのではなく、
また抑圧者として君臨してきた白人やその社会を憎むのではなく、
ただただ他者による奴隷化を無くし、
「人間」として尊重されることをただ一つ主張していた。