読書の記録

読んだ本の記録や、自分の経験の記録などをのんびりと記します。

著上間陽子「裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち」

 

裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち (at叢書)

裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち (at叢書)

  • 作者:上間陽子
  • 発売日: 2017/02/01
  • メディア: 単行本
 

 

 最近、日曜になると近くの市立図書館まで歩いて本を借りに行ったり、返しに行ったりしている。

 近頃組織論に興味をもってその本を借りて読んでいたのだけれど、あまりの分厚さに圧倒されてなかなか読み切ることができなかった。そんな時、ふとマンスプレイニングという言葉を生み出した(正確には生まれるきっかけを作った)本の存在(”Men Explain things to Me”のこと)を思い出し、ネットで検索したらこれも市立図書館にあるということで早速借りにいった。

 私は仕事の関係で地方都市に居住しているが、こんな地方市立図書館でも「読みたい!」と思った本が代替いつもきちんとそこにあるのはなんとも有難い話だと思う。

 それで、”Men Explain things to Me”を借りにいった時に、その本と同じ棚にあったのがこの本である。大学院の授業でこの著者について紹介があったことを思い出して、興味をもち借りてみたというのが事の顛末。

 

 

本を読み、本当に同じ世界で生きているのかと疑うほどに、

この本で登場してくる実在する人物の女の子たちの周りには、『暴力』が溢れている。

 

それは、殴る・蹴るといった『暴力』はもちろんのこと、

強姦といったいわゆる『性暴力』などありとあらゆる携帯の『暴力』がそこに溢れていて。

 

20歳にもならない若い、日本の、沖縄の女の子たちがその『暴力』の渦に巻き込まれている。

 

ページをめくり、次の女の子の話がでてくるが、大体その子たちは若い年で子どもを産み、そしてそのパートナーと別れている。どの子もどの子も、だ。

 

ふと、昨年夏の休暇を使って友人と沖縄に行ったことを思い出した。

那覇市で宿泊したホテルは繁華街の少し外れたところにあって、人目で治安があまり良くないと思った。ホテルの、私が泊まる部屋から見下ろしたそこには、灰色の雑然とした路地とギラついたネオンの看板が並んであった。

 

あの日、私が見下ろしたあの路地裏の世界で、この本に出て来る女の子たちは生きているのだろうかとふと考えた。

 

 

「その身体が、おさえつけられ、なぐられ、懇願しても泣き叫んでもそれがやまぬ状況、それは、暴力が行使されたときだ。そのため暴力を受けるということは、そのひとが自分を大切に思う気持ちを徹底的に破壊していまう。」 p.6 「裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち」(2017) 上間陽子

 

 

「暴力はさまざまなものに姿を変えるが、弱いものの身体に照準を合わせて姿をあらわす。暴力は循環し、世代を超えて連鎖する」 p.7 同上

 

この本に出てくるストーリーは幾つかある。

勿論、登場人物はそれぞれに違う。 

そこの話の内容だって異なる。

けれど、登場人物たちの境遇や属性はあまりにも似通っている。

 

未成年での妊娠と出産、家族からの暴力、配偶者・彼氏からの暴力、そして貧困

それらは全て、何度も再生産されて次の世代にも引き継がれていく。

 

 

 

 

 

 

 

「説教したがる男たち」著レベッカ・ソルニット 訳ハーン小路恭子

 

「説教したがる男たち」 Men Explain Things to Me

 

殺人犯の90%は男性。

 

著 レベッカ・ソルニット

訳 ハーン小路恭子

 

説教したがる男たち

 

 もし私が誰かに「フェミニズムジェンダーについて知りたいんだけど、なにか良い本はないかな?」と尋ねてきたら、私には真っ先に名を上げたい本が3つある。

 

1つ目は、ベル・フックス著『フェミニズムはみんなのもの:情熱の政治学

 

2つ目は、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著『男も女もフェミニストでなきゃ』

 

そして、最後の3つ目が今回の本。レベッカ・ソルニット著『説教したがる男たち』だ。

 

 これらの本はどれも、初学者にとっても分かり易い言葉と論理を使って、現在議論されているフェミニズムの世界へと誘ってくれる。

 

私のおおまかな印象でいえば、

フックスは人種・階級といった様々な要因を踏まえながらフェミニズムを議論し、

アディーチェは非常にシンプルで明快な言葉で、日常生活で誰もが経験しそうな出来事を例に、ジェンダー差別が根強く存在している現実世界について話をしてくれる。

 

そして、このソルニットの本は数字を用いて、いかに今の現実世界で”女性”が差別され傷ついているかを説得力を以て訴えかけてくれる。

 

例えばなのだけれど、

誰かが女性が「女性」というだけの理由で、これだけ女性は苦しい思いをしているのだとする。

その時、それを聞いたあなたはその「女性」という単語のスケールのあまりの大きさに眩暈を感じるかもしれない。

そして、もしかしたらあなたは、「苦しい思いをしているのは女性だけではなく、男性もだ」と反論をして、その主語のあまりの大きさを指摘し、視点の変換を求めるかもしれない。

 

ちなみに、フェミニズムジェンダーを学ぶ前のかつての私がそうだった。

ソルニットの本は、そういった反論を踏まえた上で、あまりにも社会構造的に世界で女性が「女性」であることで、差別をうけ、傷つき、時に魂を殺されるかのような経験を受けていることをあまりにも沢山の具体的な事例を引き出して説明してくれる。

 

本の中に、アメリカのフェミニストの引用でこんな言葉があった。

フェミニズムとは、女性を人間として扱うことを要求するラディカルな思想である」

 

会社で働いていると、年代があまりにも異なる男性上司が、女性部下をどのように扱っていいのか分からず躊躇うという話を聞いた。

 

それを聞いて、何故「女性」であるとか「男性」であるかという性別がそこまで部下の扱いに影響を及ぼすのか疑問に思うようになった。

 

そうではなく、「女性」も「男性」も1人の人間として尊重した扱いをすれば良いだけのはずである。

 

私たちの生きている世界は、あまりにも「女性」と「男性」でなにもかもを二分にして、なにかを説明しようとしたがる。そして、その説明に納得をする人間が多いのも事実だ。

 

しかしそうではなく、目の前にいる人を、純粋に対等な人間として尊重して接していきたいと考えている。

 

 

 

 

「男も女もフェミニストでなきゃ」著チママンダ・ンゴズィ・アディーチェを読む

 

 

男も女もみんなフェミニストでなきゃ

男も女もみんなフェミニストでなきゃ

 

 

 

市立図書館で借りきて読んだチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの本。

この本を読んで、とにかく思ったのは

フェミニズムフェミニストに関して全く/ほとんど知らないという人にとにかく読んで欲しい!ということ。

この本は、著者がかつてTEDという様々なテーマで有名人他がスピーチを行うカンファレンスで行ったスピーチに加筆修正したもの。

そのため、この本自体は約100Pほどの短いページで構成されていて、

また文章自体も口語なのでとても明快でわかりやすい

 

ちなみに、実際にTEDで行ったスピーチはこれ↓

本の内容とほぼ同じ内容で話しているので、本を読む代わりにこちらのスピーチを聞いてもよいかもしれない。ちなみに、スピーチは英語で行われているが、日本語字幕を出すことも可能である。

 


We should all be feminists | Chimamanda Ngozi Adichie | TEDxEuston

 

彼女のこちらの本は、ナイジェリア出身の彼女の女性としての経験を具体例に挙げてフェミニストの話をしているが、彼女の経験は決してナイジェリアに限定されるものではない。

日本においても女性であれば経験するであろう話が語られている。

また、日本でジェンダー問題を文字通り語る時、相手から受けそうな「ネガティブな」反応などに対しても気持ち良く、そして明快に、そして論理的に論破している。

 

とりあえず、以下に自分が気に入った文章を記す。で、適宜自分の考えたことを一緒に記したい。

※カラー太字の部分は強調の意味として私が付けている。※

 

(p.28)「つまり文字通りの意味合いで、男性が世界を支配しているのです。これは千年前ならうなずけます。当時、人類は身体が強靭であることこそ生き延びるための最重要特質とする世界に生きていたからです。そのため、身体的に強い人が指導者になりやすかった。(略)今日、私たちはまったく異なる世界に生きています。指導力のある人とは必ずしも身体的に強い人では「なく」て、むしろより知的で、知識が豊富で、より想像的で、より革新的な人です。こういった特性にホルモンは関係がありません。

 

 →基本的に、今日求められる指導者/リーダーに性別は関係ないという点は賛成する。けれど、例えばブルーワーカーのような肉体的労働を行う会社・業界の中で、評価されるのはやはり肉体的労働に耐え「うる」「男性」になってしまうのではないかと思った。そして、そのような肉体労働が評価される会社・業界においては、必然的に指導者/リーダーポジションにつくのは「男性」になるのではないか。

 

(p.34)「わたしは怒っています。私たちはみんな怒るべきです。怒りにはポジティヴな変化をもたらしてきた長い歴史があります。でもわたしには希望もあります。自分たちをより良いものに作りなおす人間の能力を信じているからです。」

 →私が思うに、日本社会においては「怒り」に対して非常にネガティブなイメージがある。社会に対して、意見を言う時、怒る時。感情的だとして、批判される。けれど、「怒り」はネガティブではないのだというメッセージ。

 

(p.50)「私たちが使う言語でさえそのことを雄弁に物語っています。結婚をめぐる言語はしばしば、対等なパートナーシップの言語ではなく、所有の言語となります。

 →日本語だと、例えば「家内」や「旦那」、「主人」とか。私はいつも友達の夫を呼びたい時、できるだけ対等な言葉を使いたいのに、自分にも相手にもしっくり伝わるような言葉が出てこず、結局「旦那さん」と呼んでしまう。本来であれば、パートナーとか使いたいのだけれど、少なくともジェンダーフェミニズムの話をする友人との間では使うが、そのような話をあまりしない友達の間ではしようがなく「旦那さん」と呼んでしまう。

 

(p.72)「ある男性がわたしに「なぜあなたが女性としてでなければならないの?なぜ人間としてではないの?」といいました。この種の質問はある人の具体的な経験を沈黙させる方便です。もちろんわたしは人間ですが、この世界にはわたしが女性であるがゆえに起きる個別の出来事があるのです。」

 

(pp.74-76)「女性は男性より下位にあるのが私たちの文化だという人もいるでしょう。でも文化は絶えず変化します。(略)文化が人びとや民族を作るわけではありません。人びとや民族が文化を作るのです。もしも、女性に十全な人間性を認めないのが私たちの文化だというのが本当なら、私たちは女性に十全な人間性を認めることを自文化としなければなりませんし、それは可能です。

 

 →日本で伝統や文化を理由に選択的夫婦別姓を反対する人に、50,000回読ませたい。まじで。

 

 

 

 

 

フランツ・ファノン「黒い皮膚・白い仮面」

「黒い皮膚・白い仮面」

フランツ・ファノン

海老坂武・加藤晴久

みすず書房

 

市立図書館で借りた「ジェンダースタディーズ」に紹介されていたこの本。

試しに、同じ市立図書館で探してみたら、この本自体があったので

読み始めた。(読むのに時間がかかって4週間もかかってしまった)

 

この本を読んで、全体を通して感じたのは

とんでもなく根深い黒人差別の問題だった。

 

こうして字にしてしまうと、

とてもありきたりというか、陳腐な感じになってしまうのが歯がゆいけれど。

 

勿論、今まで黒人差別に関して全く知らなかったわけではない。

学校の歴史の時間を通して、特に高校の世界史の勉強を通して

黒人が奴隷として、人間扱いをされずに

差別され、搾取され、時として殺されてきたことを「事実」として知っている。

 

けれど、このファノンの本を通して、

その字面だけの黒人差別の「事実」に、

リアルすぎるほどの血肉が通うのを感じた。

しかもただの血肉ではない、ドス黒い、悲痛なほどドス黒い血肉を、だ。

 

たまたま、この本を読んでいる最中に、

日本のお笑い芸人が某有名な手にスプレイヤーの肌の色を揶揄い

それを批判され謝罪に至ったということが起きた。

 

謝罪をしたお笑い芸人には、全く悪気が無かったことはだけはわかる。

しかし、やはり彼女たちが今回取り上げた肌の色を揶揄するお笑いには以下の2点で問題があるだろう。

 

1つは、皮膚や顔など生来的なものを揶揄するのは極めてナンセンス、というより非常識だし、極めて不躾で失礼だということだ。

日本のお笑いでは、いまだに他人の身体を揶揄して「デブ」や「ブス」、「ハゲ」といった言葉が使われる。

しかし、顔や身体といった生来的なものに関してそれを笑う種にするべきではいのだ。

(この問題に関しては、私も別の記事で取り上げたい。

私は、普段人の身体を笑いの種にすることはない。

けれど、最近自分が同等のことをしてしまったことに気づき、激しく自己嫌悪に陥った。

日本では、ルッキズム的な物の見方が至るところに蔓延っており、

私も時々、そのルッキズム的な考え方をしていることに

時々気づいてしまいこの見方をどのように乗り越えるべきなのか考えあぐねている)

 

もう1つは、肌の色の問題というのは、日本で考えられている以上に

敏感な問題だということだ。

なぜ敏感な問題なのかというと、明らかに、そして確実に、

その肌の色を理由とした考えるも無惨な出来事とその積み重ねが歴史として実際に存在しており

そのような「過ち」を二度とおこしてはいけない、その教訓だからだ。

(あまりうまく書けないけれど)

 

ファノンの記したこの本を読むと、

いかに「黒い肌」を理由とした黒人差別が

彼の出身国の宗主国だったフランスの人々や、

彼の出身国であるアンティル島の人々の

心や意識、態度全てに深く内面化・身体化されていて、

フランス人からも、またアンティル島の人々自身からも

かれらの生まれつきの「黒い肌」が悲しいまでに貶められ侮辱され憎まれて

きたのかが悲痛なほどわかってくる。

 

私はこの本を読んで、

「黒い肌」に対する「差別」が(実際には肌の色の違いで、人の間に違いはないはずなのに)これほどまで人の意識や態度、心、そして彼らが住む社会生活空間にまで

蔓延っていた当時に恐れを感じた。

しかし、同時にそれは

今私が存在しているこの社会自身も、

恐ろしい見えないヴェール

に包みこまれていて、知らず知らずそこに生きる人々の首をゆるやかに締めているのかもしれないと思った。

 

 以下、興味深かった部分をとりだす。

 

(p.109)「私は、主観的な体験も、他人によって理解されうると心から信じている。であるから、黒人問題は、私の、私だけの問題である、と言って身をのり出し、研究し始める気はまったくない。だが、マノニ氏は、白人に対する黒い皮膚の人間の絶望を

内側から感じとろうとはしなかったように思われるのだ。この研究の中で私は、黒人の悲惨に触れるように努めた。感覚的に、また感情的に。私は客観的であろうとは望まなかった。その上、それは間違っている。私には、客観的であることはできなかったのだ。」

 

(p.113)(エメ・セゼール植民地主義論』p.14-15より引用)

「…それはナチズムのせいなのだが、それはそうなのだが、その犠牲者となる前に彼ら自身共犯者であったということを。このナチズムを堪え忍ぶ前に指示したということを、これを許し、これに目をつぶり、それまでは非ヨーロッパ民族にしか適用されてこなかったのでこれをあらためて承認したということを。このナチズムを育てたのは彼らであり、彼らに責任があるということを。」

 

(p.114)「植民地者は、《少数者》として暮らしているにもかかわらず、劣等化されているとは感じたにのである。マルチニック島には二〇〇人の白人がおり、彼らは三〇万の有色ひとよりも自分たちは優れていると思っている。」

 

(p.132)「私は私の身体、私の人種、私の父祖の責任を同時に負っていた。私は自分の身体の上に客観的なまなざしを注いだ。私の肌の黒さを、私の人種的な特徴を発見した。―そして、人食い、精神遅滞、物神崇拝、人種的欠陥、奴隷承認といった言葉が耳をつんじざいた。そして、とくに、そうだ、とくにあの「おいしいバナニアあるよ」が。」

 

(p.136)「とはいえユダヤ人はつぢゃ人であることを知られずにいることもできる

彼は彼が現にそれであるところのものになりきってしまってはいない。希望し、期待することができる。最終的には彼の行為、彼の行動が決めてとなる。彼は白人である。根拠の薄弱ないくつかの特徴を別にすれば、ひとに気づかれずに済むことができるのだ。(…)私にはいかなるチャンスも認められない。私は外部から多元的に決定されているのだ。私は他人が私について抱く《観念》の奴隷ではない。私のみかけの奴隷なのだ。」

 

(p.142)「反ユダヤ主義者の態度が二グロ嫌いの態度と似ているというのは、最初は意外に思えるかも知れぬ。(…)わが同胞に課せられた運命に対して、私は自分の身心両面において責任がるという意味で。」

 

(p.163)「劣等感なのか?いや、非在感だ。罪は黒い、美徳が白であるように。」

 

(p.172)「だが、ひとたびヨーロッパに行けば、自分の運命を考え直さなけれなならなくなるだろう。二グロは、フランスでは自分の国であるのに、自分が他のフランス人と違っていることを感じるだろうからである。二グロがみずから劣等感を抱くからさ、と決めこむものもあった。事実は、劣等感を抱かせられるのだ。アンティル諸島の子どもは白人の同国人と共に生きることを絶えず求められているフランス人なのである。ところがアンティルの家族は民族的構造、つまりフランス的構造、ヨーロッパ的構造といかなる連関も持っていない。そこで、アンティル人は自分の家族かヨーロッパ社会かを選択をしなければならなくなる。換言すれば、社会ー白人社会、文明社会ーにおのぼりする個人は、家族ー黒人の家族、未開家族ーを排斥する方向に向かうのだ。」

 

(p.183)「ひとはユダヤ人に警戒する。ユダヤ人は冨を所有したり、枢要のポストを占めたりしようと狙っているからである。ところが、二グロは生殖に固着している。」

 

(p.197)「これは反応現象の好例である。ユダヤ人は反ユダヤ主義に対する反応としてみずから反ユダヤ主義者となるのだ。」

 

(p.203)「ルネ・マランのように、フランスで生活し、人種偏見に満ちたヨーロッパの神話と先入見を呼吸し嚥下し、そのようなヨーロッパの集団的無意識を同化してしまた二グロは、自分を観察した場合、己れのうちに二グロに対する憎悪しか認めることができないであろう。(…)ヨーロッパにおいては、<悪>は黒人によって表象されているという命題は理解されうるであろうか?」

 

(p.206)「アンティルの黒人はこの文化的強制の奴隷である。かつて彼らは白人によって奴隷にされた。今は自分を奴隷化する。二グロはあらゆる意味において白人文明の犠牲者である。」

 

(p.249)「黒人であるこの私の欲することはただひとつ。道具に人間を支配させてはならぬこと。人間による人間の、つまり他者による私の奴隷化が永遠に止むこと。彼がどこにいようが、人間を発見し人間を求めることがこの私に許されるべきこと。(…)人間が人間的世界の理想的存在条件を創造することができるのは、自己回復と自己検討の努力によってである。己れの自由の不断の緊張によってである。」

最終章の最後のページには、

ファノンの黒人としての抑圧されてきた歴史の中に自分を見出すのではなく、

また抑圧者として君臨してきた白人やその社会を憎むのではなく、

ただただ他者による奴隷化を無くし、

「人間」として尊重されることをただ一つ主張していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「女性の活躍促進に向けた取組み アイスランドの経験から学ぶ」NWECグローバルセミナーに行ってきた

修論の気晴らしにちょっと。

 

今年の9月か10月位に、

石川県金沢市で行われた日本女性会議に参加していた。

 

知り合いの教授から、自身が登壇することを話され

アカデミアの世界にいるのも時間に限りがあるので足を伸ばしたのである。

 

そこで、チラシとして配られたのが、

標題のグローバルセミナーのチラシ。

 

元々、アイスランドという国がなんとなく好きで、

(綺麗そうだな~っていう印象)

アイスランドの女性活躍促進ってなんだろう?」と

思い関心があって申し込みをした。

(あとから見ると、かなりの応募があったようでキャンセル待ちとかあったらしい)

 

当日になると、私の悪い癖で

「行くの面倒くさいな~」とか思っていたのだけれど(笑)

でも折角なので、

2限の授業発表が終わりご飯を食べて会場の四谷駅へ向かった。

 

講演を聞いた感想はというと、

 

すごく良かった!!!

 

アイスランドは現在、ジェンダーギャップ指数1位の国。

それなだけあって、

男女賃金同一法の制定などかなり男女平等の先進的な取り組みをしていたことが分かった。

 

また、現在はアイスランドの高校の幾つかの高校で

ジェンダー教育の授業が導入されているらしく、

基調講演者のアクティビストはその授業の必修科目化を目指していると語っていた。

 

すごい。

 

しかも、その必修科目化を目指したのは、

大学で社会学を先行していた高校教師らしい。

 

アイスランドも、

かつてはフェミニストという言葉がとてもスティグマとされていたらしい。

しかし、今では

フェミニスト=クールという図式が成立しているらしい。

 

私もかつて、

フェミニストという言葉に対してあんまりイメージが無かったのをそれで思い出した。

 

私も、大学院進学をふまえて、

ジェンダーをやりたいという気持ちが過去にあった。

 

しかし、

これ以上「過激」な思考に走ってしまったら

私は社会不適合者になってしまうのではないかと思い足を踏み直したのだ。

 

でも結局、

今の分野の研究も楽しいが

自分が日頃関心を持っているのは、ジェンダーのことなんだなと

この大学院2年間で痛感した。

 

ジェンダー

高校生までの私が意識していなかったもの。

そして、大学生になった私が痛感したもの。

そして、大学4年生になった私が再び痛感したもの。

 

この日本社会で女として生きることは不利だ、と思った。

 

大学1年生の時の私が言っていた言葉。

「性別の関係無い無機物になりたい」

女であるという呪いは、ずっと私にかかりっぱなしである。

 

勿論、

それから彼氏と出会い、交際してから

ああ、こんな私でも受け入れてくれる人がいるんだ

と思ったのことは、

すごく私を慰めてくれた。

 

でも、やはり

彼氏がいても私にふりかかるこの社会からの「女である」という呪いは

完全には解けなかった様に思う。

 

そりゃそうだろう。

私の世界は、彼氏だけで成り立っているわけではないのだから。

 

今回のセミナーの講演は、

まだ日本の状況が酷いものであることを再確認させてくれると同時に、

でもこれからの変革の希望もあるのだということを思い直させてくれたものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

チェーホフ「可愛い女・犬を連れた奥さん」

 

チェーホフ 作

神西清 訳

岩波文庫

「可愛い女・犬を連れた奥さん

 

ロシア文学の本を読みたいな、と思っていたのでとりあえずチェーホフから。

 

ロシア文学の本を読んだのは、

恐らくこれが初めてといっていいくらいだと思うのだけれど

結構面白く読めた。

 

読んだのは、「可愛い女」「犬を連れた奥さん」「イオ―ヌィチ」。

何か今まで読んだ本となにか違うかって言われるとなんだろう、

登場人物の性格とかが結構面白いなと思った。

 

例えば、イオ―ヌィチで出て来る主人公の男性は

でっぷり太ったなんか性格の悪そうな医者だし、

可愛い女に出て来る主人公の女性は、

自分の意見をまるでもたなくて結婚相手・交際相手が話すことを

そのまんま自分の意見として話して、いわゆる恋人とか夫がいないと生きていけない女性だった。

 

こういう登場人物の性格設定っていうのは、

かなり個性的だなと思った。

 

ちなみに、犬を連れた奥さんでは

ヤルタで会った婦人のことが忘れられなくて

モスクワに帰った後わざわざサンクトペテルブルグにまで会いに行っちゃうという。

いやそりゃ別れた浮気相手がいきなり劇場で声をかけてきたらびっくりするよなあ。

 

そうそう、

主人公だからといって非常に美化されているわけでもなく、

なんかすごく人間らしい、人間くさい感じの登場人物設定ってのがおもしろいなと思った。

 

 

 

 

牧野智和『自己啓発の時代 「自己」の文化社会学的探究』

勁草書房

2012年第1版第1刷発行

 

本の帯びに

「本当の私を知りたい」「自分を変えたい」「高めたい」…

 

といった言葉の羅列があって、面白そうで手にとった。

ちまちま読んでいたのだが、

あまり自分で完全にこの本の内容をきちんと理解出来たか少し不安なので

この本を読みながら考えたことをめも程度に書いていこうと思う。

 

本当の自分を知りたい、

といったときに個人的に思い浮かぶのが占いだ。

 

私は結構占いが好きである。

でも、占いって科学的に考えるとどういう立ち位置のものなのだろう。

占い=非科学的なもの、

という等式は割と簡単に想像が出来るが

意外に科学的根拠に基づいたものなのかなあ、占いって。

 

この著書を読んでいる時、

もし自分が本当の自分を知りたい、とか自分を変えたいと思った時どうするかを考えたら

多分インターネットの無料占い診断とか、「自分を変えたい」とかグーグル検索で打ち込んでそれで出てきた自己啓発関連のネット記事を読むだろうなと思った。

わざわざ自己啓発の本を買う、というお金を支払ってまで自己啓発を追求する人というのは、なんていうんだろう。どういう人なんだろうなあ~とか思ったりした。(やはり意識高くて、自分でお金を自由に使うことが出来る会社員とかなのだろうか)

 

そうそう、あとこの本を読んで思ったのが

コンサルタント」ってなんなんだろうねということだ。

コンサルタント、という職業はいつ頃から発生するようになったのだろうか。

 

最近はコンサルタント飽和が凄い様な気がしていて、

経営コンサルとかいうド王道のものもあれば、

なんか食べ物とかスポーツとか、すごく身近なものに関するコンサルタントもいる。

 

以前、コンサルティング会社にインターンをした際に、社内の人事の人がこう言っていたのを思い出す。

 

コンサルタントという職業には、資格がいりません。だから、割と誰でもコンサルタントを自称できちゃう」

 

あーそうなんだ、と思った。

だからこんなに最近なんだそのコンサル?みたいなコンサルタントがよくテレビに出ているのね、と思った。

 

私的には、コンサルタントこそが自己の内面のテクノロジー化によって生まれた職業なんじゃないかと思うんだけどな。どうだろう。

 

あと個人的に思ったのが、

雑誌研究って難しいなと思ったということ。

 

この本では、an・anとかプレジデントを使って分析をしているのだが、

それらの研究対象に接近する理由は分かるものの、

うーん、この雑誌の代表性ってどうなんだろう…とか思わないでも、ない。

 

あとそういえば、この本を手に取った間接的な要因となったのは

以前ニュージーランドから留学で帰ってきた時に、日本の本屋に自己啓発本がずらりと並んでいたのにびっくりしたからだ。

 

ニュージーランドの本屋ではまずこんな自己啓発本は無かった、ように思う。(今考えるとニュージーランドオークランドはなんか本屋がものすごく僅かしかなかったな)

 

でもこの本を見ると、アメリカとかの有名企業のCEOの本とかも言及されていて、

「あ、フーン。そうなんだ」とか思った。

 

もしかしたら、なんかこういう有名企業CEOの成功本とかって、結構国によってもそれくらい人気が出ているのか違うのかもな~とか思ったりした。

 

そんな感じです。