読書の記録

読んだ本の記録や、自分の経験の記録などをのんびりと記します。

「男も女もフェミニストでなきゃ」著チママンダ・ンゴズィ・アディーチェを読む

 

 

男も女もみんなフェミニストでなきゃ

男も女もみんなフェミニストでなきゃ

 

 

 

市立図書館で借りきて読んだチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの本。

この本を読んで、とにかく思ったのは

フェミニズムフェミニストに関して全く/ほとんど知らないという人にとにかく読んで欲しい!ということ。

この本は、著者がかつてTEDという様々なテーマで有名人他がスピーチを行うカンファレンスで行ったスピーチに加筆修正したもの。

そのため、この本自体は約100Pほどの短いページで構成されていて、

また文章自体も口語なのでとても明快でわかりやすい

 

ちなみに、実際にTEDで行ったスピーチはこれ↓

本の内容とほぼ同じ内容で話しているので、本を読む代わりにこちらのスピーチを聞いてもよいかもしれない。ちなみに、スピーチは英語で行われているが、日本語字幕を出すことも可能である。

 


We should all be feminists | Chimamanda Ngozi Adichie | TEDxEuston

 

彼女のこちらの本は、ナイジェリア出身の彼女の女性としての経験を具体例に挙げてフェミニストの話をしているが、彼女の経験は決してナイジェリアに限定されるものではない。

日本においても女性であれば経験するであろう話が語られている。

また、日本でジェンダー問題を文字通り語る時、相手から受けそうな「ネガティブな」反応などに対しても気持ち良く、そして明快に、そして論理的に論破している。

 

とりあえず、以下に自分が気に入った文章を記す。で、適宜自分の考えたことを一緒に記したい。

※カラー太字の部分は強調の意味として私が付けている。※

 

(p.28)「つまり文字通りの意味合いで、男性が世界を支配しているのです。これは千年前ならうなずけます。当時、人類は身体が強靭であることこそ生き延びるための最重要特質とする世界に生きていたからです。そのため、身体的に強い人が指導者になりやすかった。(略)今日、私たちはまったく異なる世界に生きています。指導力のある人とは必ずしも身体的に強い人では「なく」て、むしろより知的で、知識が豊富で、より想像的で、より革新的な人です。こういった特性にホルモンは関係がありません。

 

 →基本的に、今日求められる指導者/リーダーに性別は関係ないという点は賛成する。けれど、例えばブルーワーカーのような肉体的労働を行う会社・業界の中で、評価されるのはやはり肉体的労働に耐え「うる」「男性」になってしまうのではないかと思った。そして、そのような肉体労働が評価される会社・業界においては、必然的に指導者/リーダーポジションにつくのは「男性」になるのではないか。

 

(p.34)「わたしは怒っています。私たちはみんな怒るべきです。怒りにはポジティヴな変化をもたらしてきた長い歴史があります。でもわたしには希望もあります。自分たちをより良いものに作りなおす人間の能力を信じているからです。」

 →私が思うに、日本社会においては「怒り」に対して非常にネガティブなイメージがある。社会に対して、意見を言う時、怒る時。感情的だとして、批判される。けれど、「怒り」はネガティブではないのだというメッセージ。

 

(p.50)「私たちが使う言語でさえそのことを雄弁に物語っています。結婚をめぐる言語はしばしば、対等なパートナーシップの言語ではなく、所有の言語となります。

 →日本語だと、例えば「家内」や「旦那」、「主人」とか。私はいつも友達の夫を呼びたい時、できるだけ対等な言葉を使いたいのに、自分にも相手にもしっくり伝わるような言葉が出てこず、結局「旦那さん」と呼んでしまう。本来であれば、パートナーとか使いたいのだけれど、少なくともジェンダーフェミニズムの話をする友人との間では使うが、そのような話をあまりしない友達の間ではしようがなく「旦那さん」と呼んでしまう。

 

(p.72)「ある男性がわたしに「なぜあなたが女性としてでなければならないの?なぜ人間としてではないの?」といいました。この種の質問はある人の具体的な経験を沈黙させる方便です。もちろんわたしは人間ですが、この世界にはわたしが女性であるがゆえに起きる個別の出来事があるのです。」

 

(pp.74-76)「女性は男性より下位にあるのが私たちの文化だという人もいるでしょう。でも文化は絶えず変化します。(略)文化が人びとや民族を作るわけではありません。人びとや民族が文化を作るのです。もしも、女性に十全な人間性を認めないのが私たちの文化だというのが本当なら、私たちは女性に十全な人間性を認めることを自文化としなければなりませんし、それは可能です。

 

 →日本で伝統や文化を理由に選択的夫婦別姓を反対する人に、50,000回読ませたい。まじで。

 

 

 

 

 

フランツ・ファノン「黒い皮膚・白い仮面」

「黒い皮膚・白い仮面」

フランツ・ファノン

海老坂武・加藤晴久

みすず書房

 

市立図書館で借りた「ジェンダースタディーズ」に紹介されていたこの本。

試しに、同じ市立図書館で探してみたら、この本自体があったので

読み始めた。(読むのに時間がかかって4週間もかかってしまった)

 

この本を読んで、全体を通して感じたのは

とんでもなく根深い黒人差別の問題だった。

 

こうして字にしてしまうと、

とてもありきたりというか、陳腐な感じになってしまうのが歯がゆいけれど。

 

勿論、今まで黒人差別に関して全く知らなかったわけではない。

学校の歴史の時間を通して、特に高校の世界史の勉強を通して

黒人が奴隷として、人間扱いをされずに

差別され、搾取され、時として殺されてきたことを「事実」として知っている。

 

けれど、このファノンの本を通して、

その字面だけの黒人差別の「事実」に、

リアルすぎるほどの血肉が通うのを感じた。

しかもただの血肉ではない、ドス黒い、悲痛なほどドス黒い血肉を、だ。

 

たまたま、この本を読んでいる最中に、

日本のお笑い芸人が某有名な手にスプレイヤーの肌の色を揶揄い

それを批判され謝罪に至ったということが起きた。

 

謝罪をしたお笑い芸人には、全く悪気が無かったことはだけはわかる。

しかし、やはり彼女たちが今回取り上げた肌の色を揶揄するお笑いには以下の2点で問題があるだろう。

 

1つは、皮膚や顔など生来的なものを揶揄するのは極めてナンセンス、というより非常識だし、極めて不躾で失礼だということだ。

日本のお笑いでは、いまだに他人の身体を揶揄して「デブ」や「ブス」、「ハゲ」といった言葉が使われる。

しかし、顔や身体といった生来的なものに関してそれを笑う種にするべきではいのだ。

(この問題に関しては、私も別の記事で取り上げたい。

私は、普段人の身体を笑いの種にすることはない。

けれど、最近自分が同等のことをしてしまったことに気づき、激しく自己嫌悪に陥った。

日本では、ルッキズム的な物の見方が至るところに蔓延っており、

私も時々、そのルッキズム的な考え方をしていることに

時々気づいてしまいこの見方をどのように乗り越えるべきなのか考えあぐねている)

 

もう1つは、肌の色の問題というのは、日本で考えられている以上に

敏感な問題だということだ。

なぜ敏感な問題なのかというと、明らかに、そして確実に、

その肌の色を理由とした考えるも無惨な出来事とその積み重ねが歴史として実際に存在しており

そのような「過ち」を二度とおこしてはいけない、その教訓だからだ。

(あまりうまく書けないけれど)

 

ファノンの記したこの本を読むと、

いかに「黒い肌」を理由とした黒人差別が

彼の出身国の宗主国だったフランスの人々や、

彼の出身国であるアンティル島の人々の

心や意識、態度全てに深く内面化・身体化されていて、

フランス人からも、またアンティル島の人々自身からも

かれらの生まれつきの「黒い肌」が悲しいまでに貶められ侮辱され憎まれて

きたのかが悲痛なほどわかってくる。

 

私はこの本を読んで、

「黒い肌」に対する「差別」が(実際には肌の色の違いで、人の間に違いはないはずなのに)これほどまで人の意識や態度、心、そして彼らが住む社会生活空間にまで

蔓延っていた当時に恐れを感じた。

しかし、同時にそれは

今私が存在しているこの社会自身も、

恐ろしい見えないヴェール

に包みこまれていて、知らず知らずそこに生きる人々の首をゆるやかに締めているのかもしれないと思った。

 

 以下、興味深かった部分をとりだす。

 

(p.109)「私は、主観的な体験も、他人によって理解されうると心から信じている。であるから、黒人問題は、私の、私だけの問題である、と言って身をのり出し、研究し始める気はまったくない。だが、マノニ氏は、白人に対する黒い皮膚の人間の絶望を

内側から感じとろうとはしなかったように思われるのだ。この研究の中で私は、黒人の悲惨に触れるように努めた。感覚的に、また感情的に。私は客観的であろうとは望まなかった。その上、それは間違っている。私には、客観的であることはできなかったのだ。」

 

(p.113)(エメ・セゼール植民地主義論』p.14-15より引用)

「…それはナチズムのせいなのだが、それはそうなのだが、その犠牲者となる前に彼ら自身共犯者であったということを。このナチズムを堪え忍ぶ前に指示したということを、これを許し、これに目をつぶり、それまでは非ヨーロッパ民族にしか適用されてこなかったのでこれをあらためて承認したということを。このナチズムを育てたのは彼らであり、彼らに責任があるということを。」

 

(p.114)「植民地者は、《少数者》として暮らしているにもかかわらず、劣等化されているとは感じたにのである。マルチニック島には二〇〇人の白人がおり、彼らは三〇万の有色ひとよりも自分たちは優れていると思っている。」

 

(p.132)「私は私の身体、私の人種、私の父祖の責任を同時に負っていた。私は自分の身体の上に客観的なまなざしを注いだ。私の肌の黒さを、私の人種的な特徴を発見した。―そして、人食い、精神遅滞、物神崇拝、人種的欠陥、奴隷承認といった言葉が耳をつんじざいた。そして、とくに、そうだ、とくにあの「おいしいバナニアあるよ」が。」

 

(p.136)「とはいえユダヤ人はつぢゃ人であることを知られずにいることもできる

彼は彼が現にそれであるところのものになりきってしまってはいない。希望し、期待することができる。最終的には彼の行為、彼の行動が決めてとなる。彼は白人である。根拠の薄弱ないくつかの特徴を別にすれば、ひとに気づかれずに済むことができるのだ。(…)私にはいかなるチャンスも認められない。私は外部から多元的に決定されているのだ。私は他人が私について抱く《観念》の奴隷ではない。私のみかけの奴隷なのだ。」

 

(p.142)「反ユダヤ主義者の態度が二グロ嫌いの態度と似ているというのは、最初は意外に思えるかも知れぬ。(…)わが同胞に課せられた運命に対して、私は自分の身心両面において責任がるという意味で。」

 

(p.163)「劣等感なのか?いや、非在感だ。罪は黒い、美徳が白であるように。」

 

(p.172)「だが、ひとたびヨーロッパに行けば、自分の運命を考え直さなけれなならなくなるだろう。二グロは、フランスでは自分の国であるのに、自分が他のフランス人と違っていることを感じるだろうからである。二グロがみずから劣等感を抱くからさ、と決めこむものもあった。事実は、劣等感を抱かせられるのだ。アンティル諸島の子どもは白人の同国人と共に生きることを絶えず求められているフランス人なのである。ところがアンティルの家族は民族的構造、つまりフランス的構造、ヨーロッパ的構造といかなる連関も持っていない。そこで、アンティル人は自分の家族かヨーロッパ社会かを選択をしなければならなくなる。換言すれば、社会ー白人社会、文明社会ーにおのぼりする個人は、家族ー黒人の家族、未開家族ーを排斥する方向に向かうのだ。」

 

(p.183)「ひとはユダヤ人に警戒する。ユダヤ人は冨を所有したり、枢要のポストを占めたりしようと狙っているからである。ところが、二グロは生殖に固着している。」

 

(p.197)「これは反応現象の好例である。ユダヤ人は反ユダヤ主義に対する反応としてみずから反ユダヤ主義者となるのだ。」

 

(p.203)「ルネ・マランのように、フランスで生活し、人種偏見に満ちたヨーロッパの神話と先入見を呼吸し嚥下し、そのようなヨーロッパの集団的無意識を同化してしまた二グロは、自分を観察した場合、己れのうちに二グロに対する憎悪しか認めることができないであろう。(…)ヨーロッパにおいては、<悪>は黒人によって表象されているという命題は理解されうるであろうか?」

 

(p.206)「アンティルの黒人はこの文化的強制の奴隷である。かつて彼らは白人によって奴隷にされた。今は自分を奴隷化する。二グロはあらゆる意味において白人文明の犠牲者である。」

 

(p.249)「黒人であるこの私の欲することはただひとつ。道具に人間を支配させてはならぬこと。人間による人間の、つまり他者による私の奴隷化が永遠に止むこと。彼がどこにいようが、人間を発見し人間を求めることがこの私に許されるべきこと。(…)人間が人間的世界の理想的存在条件を創造することができるのは、自己回復と自己検討の努力によってである。己れの自由の不断の緊張によってである。」

最終章の最後のページには、

ファノンの黒人としての抑圧されてきた歴史の中に自分を見出すのではなく、

また抑圧者として君臨してきた白人やその社会を憎むのではなく、

ただただ他者による奴隷化を無くし、

「人間」として尊重されることをただ一つ主張していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「女性の活躍促進に向けた取組み アイスランドの経験から学ぶ」NWECグローバルセミナーに行ってきた

修論の気晴らしにちょっと。

 

今年の9月か10月位に、

石川県金沢市で行われた日本女性会議に参加していた。

 

知り合いの教授から、自身が登壇することを話され

アカデミアの世界にいるのも時間に限りがあるので足を伸ばしたのである。

 

そこで、チラシとして配られたのが、

標題のグローバルセミナーのチラシ。

 

元々、アイスランドという国がなんとなく好きで、

(綺麗そうだな~っていう印象)

アイスランドの女性活躍促進ってなんだろう?」と

思い関心があって申し込みをした。

(あとから見ると、かなりの応募があったようでキャンセル待ちとかあったらしい)

 

当日になると、私の悪い癖で

「行くの面倒くさいな~」とか思っていたのだけれど(笑)

でも折角なので、

2限の授業発表が終わりご飯を食べて会場の四谷駅へ向かった。

 

講演を聞いた感想はというと、

 

すごく良かった!!!

 

アイスランドは現在、ジェンダーギャップ指数1位の国。

それなだけあって、

男女賃金同一法の制定などかなり男女平等の先進的な取り組みをしていたことが分かった。

 

また、現在はアイスランドの高校の幾つかの高校で

ジェンダー教育の授業が導入されているらしく、

基調講演者のアクティビストはその授業の必修科目化を目指していると語っていた。

 

すごい。

 

しかも、その必修科目化を目指したのは、

大学で社会学を先行していた高校教師らしい。

 

アイスランドも、

かつてはフェミニストという言葉がとてもスティグマとされていたらしい。

しかし、今では

フェミニスト=クールという図式が成立しているらしい。

 

私もかつて、

フェミニストという言葉に対してあんまりイメージが無かったのをそれで思い出した。

 

私も、大学院進学をふまえて、

ジェンダーをやりたいという気持ちが過去にあった。

 

しかし、

これ以上「過激」な思考に走ってしまったら

私は社会不適合者になってしまうのではないかと思い足を踏み直したのだ。

 

でも結局、

今の分野の研究も楽しいが

自分が日頃関心を持っているのは、ジェンダーのことなんだなと

この大学院2年間で痛感した。

 

ジェンダー

高校生までの私が意識していなかったもの。

そして、大学生になった私が痛感したもの。

そして、大学4年生になった私が再び痛感したもの。

 

この日本社会で女として生きることは不利だ、と思った。

 

大学1年生の時の私が言っていた言葉。

「性別の関係無い無機物になりたい」

女であるという呪いは、ずっと私にかかりっぱなしである。

 

勿論、

それから彼氏と出会い、交際してから

ああ、こんな私でも受け入れてくれる人がいるんだ

と思ったのことは、

すごく私を慰めてくれた。

 

でも、やはり

彼氏がいても私にふりかかるこの社会からの「女である」という呪いは

完全には解けなかった様に思う。

 

そりゃそうだろう。

私の世界は、彼氏だけで成り立っているわけではないのだから。

 

今回のセミナーの講演は、

まだ日本の状況が酷いものであることを再確認させてくれると同時に、

でもこれからの変革の希望もあるのだということを思い直させてくれたものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

チェーホフ「可愛い女・犬を連れた奥さん」

 

チェーホフ 作

神西清 訳

岩波文庫

「可愛い女・犬を連れた奥さん

 

ロシア文学の本を読みたいな、と思っていたのでとりあえずチェーホフから。

 

ロシア文学の本を読んだのは、

恐らくこれが初めてといっていいくらいだと思うのだけれど

結構面白く読めた。

 

読んだのは、「可愛い女」「犬を連れた奥さん」「イオ―ヌィチ」。

何か今まで読んだ本となにか違うかって言われるとなんだろう、

登場人物の性格とかが結構面白いなと思った。

 

例えば、イオ―ヌィチで出て来る主人公の男性は

でっぷり太ったなんか性格の悪そうな医者だし、

可愛い女に出て来る主人公の女性は、

自分の意見をまるでもたなくて結婚相手・交際相手が話すことを

そのまんま自分の意見として話して、いわゆる恋人とか夫がいないと生きていけない女性だった。

 

こういう登場人物の性格設定っていうのは、

かなり個性的だなと思った。

 

ちなみに、犬を連れた奥さんでは

ヤルタで会った婦人のことが忘れられなくて

モスクワに帰った後わざわざサンクトペテルブルグにまで会いに行っちゃうという。

いやそりゃ別れた浮気相手がいきなり劇場で声をかけてきたらびっくりするよなあ。

 

そうそう、

主人公だからといって非常に美化されているわけでもなく、

なんかすごく人間らしい、人間くさい感じの登場人物設定ってのがおもしろいなと思った。

 

 

 

 

牧野智和『自己啓発の時代 「自己」の文化社会学的探究』

勁草書房

2012年第1版第1刷発行

 

本の帯びに

「本当の私を知りたい」「自分を変えたい」「高めたい」…

 

といった言葉の羅列があって、面白そうで手にとった。

ちまちま読んでいたのだが、

あまり自分で完全にこの本の内容をきちんと理解出来たか少し不安なので

この本を読みながら考えたことをめも程度に書いていこうと思う。

 

本当の自分を知りたい、

といったときに個人的に思い浮かぶのが占いだ。

 

私は結構占いが好きである。

でも、占いって科学的に考えるとどういう立ち位置のものなのだろう。

占い=非科学的なもの、

という等式は割と簡単に想像が出来るが

意外に科学的根拠に基づいたものなのかなあ、占いって。

 

この著書を読んでいる時、

もし自分が本当の自分を知りたい、とか自分を変えたいと思った時どうするかを考えたら

多分インターネットの無料占い診断とか、「自分を変えたい」とかグーグル検索で打ち込んでそれで出てきた自己啓発関連のネット記事を読むだろうなと思った。

わざわざ自己啓発の本を買う、というお金を支払ってまで自己啓発を追求する人というのは、なんていうんだろう。どういう人なんだろうなあ~とか思ったりした。(やはり意識高くて、自分でお金を自由に使うことが出来る会社員とかなのだろうか)

 

そうそう、あとこの本を読んで思ったのが

コンサルタント」ってなんなんだろうねということだ。

コンサルタント、という職業はいつ頃から発生するようになったのだろうか。

 

最近はコンサルタント飽和が凄い様な気がしていて、

経営コンサルとかいうド王道のものもあれば、

なんか食べ物とかスポーツとか、すごく身近なものに関するコンサルタントもいる。

 

以前、コンサルティング会社にインターンをした際に、社内の人事の人がこう言っていたのを思い出す。

 

コンサルタントという職業には、資格がいりません。だから、割と誰でもコンサルタントを自称できちゃう」

 

あーそうなんだ、と思った。

だからこんなに最近なんだそのコンサル?みたいなコンサルタントがよくテレビに出ているのね、と思った。

 

私的には、コンサルタントこそが自己の内面のテクノロジー化によって生まれた職業なんじゃないかと思うんだけどな。どうだろう。

 

あと個人的に思ったのが、

雑誌研究って難しいなと思ったということ。

 

この本では、an・anとかプレジデントを使って分析をしているのだが、

それらの研究対象に接近する理由は分かるものの、

うーん、この雑誌の代表性ってどうなんだろう…とか思わないでも、ない。

 

あとそういえば、この本を手に取った間接的な要因となったのは

以前ニュージーランドから留学で帰ってきた時に、日本の本屋に自己啓発本がずらりと並んでいたのにびっくりしたからだ。

 

ニュージーランドの本屋ではまずこんな自己啓発本は無かった、ように思う。(今考えるとニュージーランドオークランドはなんか本屋がものすごく僅かしかなかったな)

 

でもこの本を見ると、アメリカとかの有名企業のCEOの本とかも言及されていて、

「あ、フーン。そうなんだ」とか思った。

 

もしかしたら、なんかこういう有名企業CEOの成功本とかって、結構国によってもそれくらい人気が出ているのか違うのかもな~とか思ったりした。

 

そんな感じです。

 

 

 

 

 

神谷悠介「ゲイカップルのワークライフバランス 男性同性愛者のパートナー関係・親密性・生活」

「ゲイカップルのワークライフバランス 男性同性愛者のパートナー関係・親密性・生活」

神谷悠

新曜社 2017年

 

 明けまして御目出とう御座います。今年も宜しくお願い致します。

 今年はもう少しこのブログを読書録として使っていきたいなあと思いまする。

 

 この本を見つけたのは、昨年の社会学大会の目録の後ろの方の広告を見たからでした。割とLGBTのことに関しても興味関心があり、「へえこんな本が出るんだな、面白そうだなあ」と思って先日ようやく出版されたのでアマゾンでポチリしました。

 以下、私の気になったとことか思ったことをぽちぽちと。あまり、読まれることを想定して書いてないので読みづらいかも。まあ、コメントとして。

 

p.32
ミシェル・フーコーは近代社会において同性愛者のアイデンティティが構築されるメカニズムを、医療化や近代国家による人口への関心に焦点を当てて解明した(Foucault 1976=1986)
ジョン・デミリオは家族を基盤とした家内経済から資本主義の自由労働システムの移行によって、異性愛家族の外部で同性への性愛的/情緒的関心に基づく個人生活が可能になったとしている(D’Emilio 1983=1997)

 このフーコーの方の、構築されるメカニズムと、医療化や近代国家といったマクロな視点がどう結びついたのだろう。研究をしている中で?
 このデミリオの研究も、同性での個人生活が可能になった要因も家内経済から資本主義の自由労働システムといったマクロな視点に結びつけることが出来たのだろう。

 勿論実際このフーコーとデミリオの論文を読まなければいけないとは思うのだけれど、自分が最近質的調査方法を学んでいく中でこの自分の研究は随分と「時」と「場所」と「対象」をとても制限した中で行われることだと思う様になった。まあだからといって研究の意義が無いとは思わないのだが、自分の研究がこの様なマクロなものに接続するにはどうすれば良いのだろうと思った。

p.50
調査票を用いてあらかじめ想定した変数のみで調査する方法では、想定されない変数による影響を分析することが不可能なため。

 量的調査法で用いられる変数生成のために役立つ質的調査。

 質的調査の利点というのは、幾つかあると思うのだが、やはり量的調査に用いられる変数を新たに発見することが出来るというのは質的調査法の良点の1つだと思った。

 やはり、質的調査を用いるのであれば、質的調査の利点をとことんまで生かすことが必要なのだろうなと思った。

 

p.79

ゲイカップルは家事を外部化しているかーにおいて、どの様な条件下において家事の外部化が進行するのか、しないのかに焦点をあてている。

 質問項目がなんだか、既存の従属変数に依存している気がする。質的調査法の利点というのは、既存の従属変数だけでなく新たな従属変数の存在を発見することではないのか。そもそも、欧米と日本では家事サービス化の進行程度に関しては大きな差異があるだろう。しかも、日本の方が同性愛者に対する偏見が相対的に強いのは明白だし、そんな状況下で他人をパートナーと共に居住する空間に入れることは容易なことではないだろう。
 それよりも、お金を何に使うかという所に質問を割けば良いのでは…?

p.100

 専業主婦になることを理想としている男性が出てきたが、何故彼がその様な理想を内面化する様になったのかが個人的には気になった。

p.106

仕事と愛情表現

 もっと質問項目も、知りたいこととダイレクトにつなげていくべきなのでは?と思った。例えば、「パートナーが沢山家事をしてくれると、大切にされていると思うか?」といった風に。掲載されている質問項目だけでは、「それは愛情表現というのか…?」と疑問だった。

 更に全体を通してだが、今のパートナーとだけでなく、過去に同居したパートナーとの家事分担の要因も聞けば良かったのではないか。その方が、家事分担の要因を更に見れる気がする。

 

 本著は、日本でも珍しくゲイカップルを対象とした、彼らのパートナー関係・親密性・生活を明らかにしたLGBT関連の研究ではかなり先駆的な研究になるのではないかと思う(あまり研究としてのLGBTの動向に関しては詳しくないのだが)。多分彼らの生活にアクセスするのも中々難しかったのではないかとも個人的に推察する。そんな中で子の様な研究が出来たのは素直に凄いなあと思った。更に、調査実施日や日時、依頼方法なども事細かに記していて、「あ~こんな感じなんだ」と質的研究手法をやっている1人として参考になる部分も多々あった。又、LGBT関連の周辺領域の研究紹介も具に記されていて、「なるほど、こんな感じで研究を網羅してんのか」と参考になった。

 

 ただ一方で、なんだか周辺領域の課題がぼかぼか出てきて、何だか結局どこを明らかにしてどこを明らかにしていないのか途中でよく分からなくなった。(いや、私の読解力にも問題あるとおもうのだけれど)それと、半構造化インタビューの中身を見たが、質的調査方法の利点である「語りの厚み」みたいなものがどこか薄っぺらく感じてしまった(いや、本当にすみません。私自身にも言えることなのだが)。恐らく研究の中身がかなりセンシティブなものであるからこそ、「削らなければならない部分」が多々あったのだろうと思う。しかし、それにしても質的調査法の良さを生かしきっているとはあまり思えなかった。というのも、他研究で用いられている従属変数を用いてインタビューを行っているからではないかと思う。勿論、この研究の第一義は「あまりよく知られていない日本のゲイカップルの生活の様相」を明らかにすることだと思うので、欧米の研究で用いられている従属変数を用いてそれを明らかにするだけでも研究の意義はあると思う。しかし、それだけでなく、この研究ならではの従属変数生成のカケラみたいなものを発見し、それをとっかかりに研究を進めていけばもっと面白くなったのでは?と考えもした。

 

とりあえず、こんな感じで感想終わり。

 

 

 

 

 

 

筒井淳也「結婚と家族のこれから 共働き社会の限界」②

第四章 「男女平等家族」がもたらすもの

 共働き社会の移行

 

 

 筒井は此処で、今まで「男性(稼ぎ手)と専業主婦」という夫婦の型が「男性も女性も働き手」へと社会が移行したのは、1つに経済が脱工業化したこと、もう1つに男性の雇用の不安定化が背景にあると言及しています(p.138)。

 

 正直、この事だけでも私にとっては非常に驚愕したというかなんというか…。何故なら、私はそもそも「性別を基準としない平等」的な、どちらかというと倫理的?視点から性別分業はオカシイと考えていたからです。つまり、男だから〇〇をして、女だから●●をする、という性を基準として物事を区別するのではなく、その性よりも前に「個の人間」を基盤にして、性を基準とした物事の区別の壁を取っ払いたいと考えていました。でも、この様な倫理的(倫理と呼んでいいのかは少し謎ですが)観点からではなく、上記の様ないわば経済的観点から社会が既存の性別分業から共働きという形態に移行するとは。勿論、家族は非常に経済的観点から構成されているものですから、「経済合理性」が一番物を言うのは当たり前っちゃあ当たり前なんですが…。

 

 少し話はそれてしまうかもしれませんが、「家族の形態」について私にインスピレーションというか、そういうものを最近与えてくれた漫画があります。

 

乙嫁語り 1巻 (HARTA COMIX)

 

乙嫁語り 1巻 (HARTA COMIX)

乙嫁語り 1巻 (HARTA COMIX)

 

  

 「乙嫁語り」という漫画で、マンガ大賞も受賞した漫画です。19世紀後半の中央アジアカスピ海を舞台にした遊牧民族だったり定住農耕民族の家族だったりを描いている漫画です(全巻持っているので貸して欲しい人がいたら友人知人限定で是非)。

 勿論、漫画なので美化されていたりしている部分は多々あると思います。しかし、この漫画での彼らの生活描写を通じて、自然と「男性は●●」をし「女性は〇〇」をするといった分業している姿を見て、もう一度自分の性別分業に対する嫌悪、というか。なんか考えをもう一度考え直そうと思った契機にもなりました。乙嫁語りの考察については次の機会で是非。

 

 もう1つ。言及しておきたいのが、面白いなと思ったのが最近私が読んだ本で、

桜井啓子著「イスラームを知る13 イランの宗教教育戦略 グローバル化と留学生」山川出版(2014年出版)です。ここでは、イスラームの宗教学院について詳しく書かれている本なのですが、この本の中で「女性の宗教教育」というテーマ下でイランの宗教学院のジェンダー観がこの様に紹介されているのです。

 

   「イランの宗教学院のジェンダー観の基礎となっているのは、男女は、生物学的な性差にもとづき、それぞれに異なった権利と義務を有するという考え方である。モハッタリー(一九二〇~七九)によると、「イスラームは男女が同じだという考えを受け入れないが、それは権利において男性が女性よりも優遇されていることを意味しない」という。ハーメイニーは、「イスラームは、人間の価値という点において男女は等しいとみなすが、与えられた役割という点では異なっているとみなす」と述べている」(桜井,2005,p.50)

 

 5万回目のウロコが落ちそうになった。

 成程、イスラームでは(勿論解釈によっても異なるのは重々承知である)性差によって、その期待役割は異なるがそれは権利の侵害だとか女性が低価値だとかに繋がっている訳ではないという。此処で思うのは、イスラームとでは「平等」の取り方が異なるのだということだ。男女という間には、生物学的な違いがあるのを元にしたうえで権利と義務が異なる。しかし、それはどちらの性に対して優劣があるという訳ではない。ふうむ。うーん。(ここら辺から口調が異なってくるんですが、此方の方が楽だし変更するのも面倒なのでこのままで)

 私が此処最近思うのは、「生物学的な性差」をどう私達は捉えていくべきなのだろうか?ということだ。私自身は、男女平等を掲げる人間だが、いわゆる「男」と「女」の間には身体的特徴、有する身体的器官が異なるのも事実だ。私は最近、これらの生物学的な差異に直視して、もう一度男女の間の「平等とは何か」を考える必要があるのではないかと考える。なんでそんなことを考えだしたのかというと、またもう一度漫画を紹介することになるのだが、以下の漫画を読んだためである。

 

 

大奥 1 (ジェッツコミックス)

大奥 1 (ジェッツコミックス)

 

  映画化されたこともあるため、割と知っている人も多いかと思うが、この漫画は簡単に言うと史実の大奥の男女逆転させた漫画である。成人男性にしかかからない病気が流行した江戸では、その罹患者が次々と亡くなりついに江戸における男女の人口比を変えてしまったのである。それで、将軍が女性、大奥に侍るのは男性という、いわゆる逆ハーレムな状態を形成していく…。

 しかし、此処で問題というか私が注目したのは、逆ハーレムって女性がイケメン男性を選び放題な訳だし、超楽しそうじゃん?と思っていたがどっこい、この漫画における将軍女性全く幸せそうではないということである。

 実際、筆者のよしながふみは(出典は明らかに出来ないのだが)この本について以下の様に述べたという。

    「この漫画で、一番性的虐待を受けているのは女性ですからね

 此処での漫画の女将軍は、子孫を残す為に子どもを産まなければならない。つまり、「どうやったって、子どもを産むのは男性ではなく女性」という「産む性である」という業から抜け出せない女性を(幾ら人口比が変わり、政治の要職に就けるのも社会で仕事をして一家を担う大黒柱が女性になったとしても!!)超絶リアルにこの仮想世界に落とし込んでいるのである。勿論、この仮想世界は特殊な事情をもって男女の人口比が逆転する、いわば有り得ない状況なのだが。それでも、そんな有り得ない事が起きたとしても、女性は生まれながらにして「産む性」であるということを私達読者に淡々と突きつけている気がしてならない。

 そこで、最近私はもう一度「産む性とは何か」ってところから全てを考えなおさなきゃいけないのでは?と思っているのである。(ちなみに、この大奥も非常に面白いので友人知人を限定に貸して欲しい人がいたら喜んで貸す)

 

 本文に戻ろう。次に、「日本の企業のなかには働きやすい環境を整えず、まだまだ「女性は実家通い前提」としているところがたくさんあるようです。」(p.140)

 この文章を読んで、私よりも早く社会人になった友人の一人がこの様なことを言っているのを思い出した。その友人は総合職で全国転勤型なのだが、その同期の女の子が肺属地が決まる前にこんなことを言っていたという。

 

   「女の子でも、容赦なく(地方に)飛ばすんだよ?

 そして、それを聞いた同期の男の子もそれに対して賛成で、「女の子にそんな地方に飛ばさなくてもなあ」といった要旨のことを言っていたようである。

 女の子でも、地方に飛ばすってどういうことなのだろうか。じゃあ、男の子ならば地方に転勤されて良いのだろうか。何故、女の子は地方に飛ばしちゃいけないのだろうか?女の子が地元にある親元を離れるのと、男の子が地元にある親元を離れるのと、何が異なるのだろうか?この日本社会には、やはり以前として「女の子は結婚まで親元の庇護にあるべき」という考えが未だ強く残っているのだろうか?

 

 もう1つ、私の経験談を話したい。これは、私が大学院受験を終え、先輩(ちなみに男性である)と将来の職業について話していた時だ。

   「お前は何歳まで働くつもりなの?」

と聞かれたので、

   「え?そりゃあ勿論、60歳とか、定年までですかね。」

と答えた。すると、

   「ふうん。そりゃ、お前はそうかもしれないけどさ。世の中にはそうじゃない奴もいるじゃん。女の人は、30歳くらいで辞めようとか考えている人もいるじゃん。でもさ、俺達(男性)はそうはいかないんだよ。(家族)養っていかなきゃいけないからさ。だから、この就活は結構重要なわけ」

 最初、私は先輩が何を言っているのか分からなかった。30歳で辞めるってどういう事?定年は60歳までじゃん。と思っていた。けれど、その後の言葉を聞いて、ああ結婚したら仕事を辞めるってことか、と思った。

 此処で2つの事を言いたい。

 1つは、やっぱりなんだかんだ言ったって、今の日本社会では「女性は結婚したら仕事を辞めてもいい」という考えがあるし、やっぱり一部の女性には最初から「結婚したら仕事を辞めてもいい」というオプションが与えられていると考えているということだ。いや、正直別に私はそれでも良いと思う。私の個人の考え方としては、自分と将来の夫とは、「私なりの価値基準で作られた平等」に基づいて仕事をし、家事をし、育児をしていきたい。けれど、勿論それが全てにおいて正な訳じゃない。社会は、異なる家族形成・形態を認めておくべきだ。ただ、私が言いたいのは「仕事を辞める」というオプションが女性にしか与えられていないという点に問題があると思うのだ。

男が専業主夫になったっていいじゃないか、結婚したら男が仕事を辞めていいじゃないか。

私はそのオプションの所在の不公平性に問題があると思うのだ。

 もう1つ。上の事と関連するが、このオプションの所在の不公平性によって、結局男性をも苦しめているのではないかということだ。上記の私の先輩の発言において、将来の家族の経済的支柱を担わなければならないという責任の重さから、先輩はどこか男性の職業選択の大変さを伝え、一方で相対的に大変ではない女性の職業選択について何処か文句を言っているようである。…まあ、こんなことは私が此処で改めて意見を言わずとも既に社会学・家族社会学の領域で何重も言われていることなのだが。

 しかし、それでも日本社会は変わらない。勿論、変革の波は少しずつ押し寄せてきている。しかし、それはとても遅々としているし、小さい。

 いまだに、この社会は「性」というものを絶対的な二項対立の概念として、世界を区別している。

 「性」って、そんなに重要な区別の基準なのか?

 私はそんなことを思わざるを得ない。

 

 さて、次。数ページ飛ばして、筒井は厚生労働白書のデータを持ってきて、「婚外子数の国際比較」を持ってきている。ちなみに、婚外子とは結婚関係にない男女の間に生まれた子どものことを指す(もしかしたらもっと厳密な説明があるかもしれないが、ここでは簡単に)。

 日本の圧倒的な婚外子の少なさ。ヨーロッパや北欧なんかでは、結婚せずともカップルで子どもを作っても手厚いサポートが国から施されるので、結婚せずとも子どもを産む人は多いのである。

 個人的には、社会学的な視点からこのヨーロッパやアメリカ、スウェーデンの中でも一体どの「社会的階層」に属するカップル同士が子どもを産んでいるのか気になるところではある。例えば、アメリカなどでは(分からない、個人的な推測に過ぎないのだが)社会的階層が低いカップルで子どもを出産するが、スウェーデンといった福祉国家では相対的に社会階層が高いカップルで子どもを出産したりといった国際間でも階層の違いとか存在しないのかなと思ったりする(誰か詳しい人がいたら教えて欲しい)。

 もう1つ、婚外子には直接関係しないかもしれないが、最近世間を騒がせている芸能人や議員の「不倫騒動」について言及したい。連日、ワイドショー等で芸能人や議員、お笑い芸人の不倫騒動についてひっきりなしに報道しているが、私はふとこの様子を見てこう思った。

 「すごいな、テレビのコメンテーターも視聴者の私達もまるで断罪者きどりだなあ」

 ワイドショーのリポーター達は、そしてその番組の街頭インタビューに答える一般人の人達は次々と厳しい言葉で、世間を騒がせている不倫について断罪していく。でも、私は思う。「私達にこんな、人を裁く権限などあるのだろうか」メディアを通して、番組の出演者と共に我々視聴者もいつの間にか公の場で、いや、社会といった方がいいだろうか、不倫を断罪する。

     しかし、正直私には何故あれほど周囲を巻き込んで彼らの不倫を断罪しなければならないのかが分からない。例えば、議員であれば税金を勝手に不倫相手とのホテル代に使ったとかならまだ分かる。税金は私達が払っているものだし、公共の利益を追求しなければならない議員のするべき行動ではないだろう。しかし、それ以外は?お笑い芸人の、芸能人の不倫は何故公の場で裁かれなければならないのだろう。彼らが裁かれるのは、私的領域に位置する自分の家族や不倫相手の家族とかであって、全く関係の無い私達ではないだろう。

    まあきっと、他人の罪を断罪する立場に自動的になれるというのは、優位な気分になれるだろうし気持ちの良いことでもあるのだろう。しかし、最近のメディアの不倫騒動はまるで集団リンチだ、と思う。

 

 以下、この本で面白いところだなと思ったのを2つほど。

 

後、フランスでは分割課税によって出生力も高いが、子どもを作れば作るほど税率が低いのでアメリカや北欧に比べれば女性活躍が少ない(p.195)とか、

北欧では男女で異なる職業に就く「性別職域分離」が進んでいるため、アメリカに比較してまだ民間企業は男性的である、つまり女性管理職数はアメリカに比べて低い(p.135)

というのは、私にとって非常に驚きで「本当かよ?!?!」という感じなので、また詳しくフランスや北欧の男女の働き方についての本とか読んだら此処で取り上げることにします。

 

もう1つ、私が最近興味をもっているのが「同類婚」についてで、これももっと深い話がしたいのでまた別の機会に個別で話が出来たらと。

 

 筒井淳也のこの本は、本当に面白く本来であれば全ての章を取り上げて私が思ったことを書き連ねていきたかったのだが、なにせもうこれ書くだけですげー疲れるからとりあえず私が言いたい!ってとこだけは此処にまとめ上げた。本当に面白い本なので、これもまた興味がある人がいたら友人知人を限定に是非貸し出したい。付箋ばりばり張ってすげー見にくいのを妥協してくれればだが。