読書記録

読書の備忘録

牧野智和『自己啓発の時代 「自己」の文化社会学的探究』

勁草書房

2012年第1版第1刷発行

 

本の帯びに

「本当の私を知りたい」「自分を変えたい」「高めたい」…

 

といった言葉の羅列があって、面白そうで手にとった。

ちまちま読んでいたのだが、

あまり自分で完全にこの本の内容をきちんと理解出来たか少し不安なので

この本を読みながら考えたことをめも程度に書いていこうと思う。

 

本当の自分を知りたい、

といったときに個人的に思い浮かぶのが占いだ。

 

私は結構占いが好きである。

でも、占いって科学的に考えるとどういう立ち位置のものなのだろう。

占い=非科学的なもの、

という等式は割と簡単に想像が出来るが

意外に科学的根拠に基づいたものなのかなあ、占いって。

 

この著書を読んでいる時、

もし自分が本当の自分を知りたい、とか自分を変えたいと思った時どうするかを考えたら

多分インターネットの無料占い診断とか、「自分を変えたい」とかグーグル検索で打ち込んでそれで出てきた自己啓発関連のネット記事を読むだろうなと思った。

わざわざ自己啓発の本を買う、というお金を支払ってまで自己啓発を追求する人というのは、なんていうんだろう。どういう人なんだろうなあ~とか思ったりした。(やはり意識高くて、自分でお金を自由に使うことが出来る会社員とかなのだろうか)

 

そうそう、あとこの本を読んで思ったのが

コンサルタント」ってなんなんだろうねということだ。

コンサルタント、という職業はいつ頃から発生するようになったのだろうか。

 

最近はコンサルタント飽和が凄い様な気がしていて、

経営コンサルとかいうド王道のものもあれば、

なんか食べ物とかスポーツとか、すごく身近なものに関するコンサルタントもいる。

 

以前、コンサルティング会社にインターンをした際に、社内の人事の人がこう言っていたのを思い出す。

 

コンサルタントという職業には、資格がいりません。だから、割と誰でもコンサルタントを自称できちゃう」

 

あーそうなんだ、と思った。

だからこんなに最近なんだそのコンサル?みたいなコンサルタントがよくテレビに出ているのね、と思った。

 

私的には、コンサルタントこそが自己の内面のテクノロジー化によって生まれた職業なんじゃないかと思うんだけどな。どうだろう。

 

あと個人的に思ったのが、

雑誌研究って難しいなと思ったということ。

 

この本では、an・anとかプレジデントを使って分析をしているのだが、

それらの研究対象に接近する理由は分かるものの、

うーん、この雑誌の代表性ってどうなんだろう…とか思わないでも、ない。

 

あとそういえば、この本を手に取った間接的な要因となったのは

以前ニュージーランドから留学で帰ってきた時に、日本の本屋に自己啓発本がずらりと並んでいたのにびっくりしたからだ。

 

ニュージーランドの本屋ではまずこんな自己啓発本は無かった、ように思う。(今考えるとニュージーランドオークランドはなんか本屋がものすごく僅かしかなかったな)

 

でもこの本を見ると、アメリカとかの有名企業のCEOの本とかも言及されていて、

「あ、フーン。そうなんだ」とか思った。

 

もしかしたら、なんかこういう有名企業CEOの成功本とかって、結構国によってもそれくらい人気が出ているのか違うのかもな~とか思ったりした。

 

そんな感じです。

 

 

 

 

 

文系大学院生の就職活動について

 

なんか今日は筆が乗るので、そういえばこれも書いておこうかなというやつも書いておくことにする。

 

文系大学院生の就職活動は、なんだか世間一般的にとても困難がつきものと言われている、気がする。

 

確か私が院に進学する時も、「文系が大学院に進学しても就職活動の時に不利になる」と先輩か誰かに言われた気がする。

 

あとは、なんかどっかのブログでも文系の大学院生は就職活動において差別されるとか書いてあった気がする。

 

あれ、なんか「気がする」ばっかりで申し訳ない。

でも割とこれらは自分の肌感覚で周りの人から言われてきたことだった。

 

それでは、自分が文系大学院生として就職活動をやった結果、どうだったかというと

 

 「別に現状の就職活動において文系の大学院生という属性が理由で、就職活動の選考に落とされるということはない」

 

というのが率直な感想である。

でもこれには幾つかの説明書きが必要になると思う。

この記事にはその事についてざっくばらん書いていきたい。

 

第一に、大学院生とコンサルティングシンクタンク業界の親和性について。

 

私が所属するコースでは、コンサルティングシンクタンク業界に就職する先輩たちが多い。同期を見てもそうだ。

 

一般に、私の所属するコースでは、社会調査などを学ぶことからそのスキルがコンサルティングシンクタンク業界に直結するという言われ方をする。

これは私も否定しない。そうだと思う。

 

実際、私は某大手日系コンサルティング会社にインターンをしたことがあるが、そのインターン同期も会社の先輩も院卒が多かった。それは別にその会社が特別、という訳では無く、他社のコンサルティング会社でも文系院卒はかなり多いというのが実情だと思う。

 

すげーざっくばらんにいうと、大学院生は研究をする上での研究調査の手法が身についている、とか、その研究の専門性がコンサルティングでも生かせるとかいう点がシンクタンクコンサルティング業界の仕事ととても親和性が高いのだと思う。

 

そういえば、以前誰かから「シンクタンクコンサルティング業界は院生の方が有利だけど、他の業界に関しては院生は不利じゃないのかな。だってそれなら学部生時代に就職活動すればいいじゃんって話だし」という話をされた。

 

私も自分が就職活動をするまでは「そうかもなあ」と思っていた。

しかし、実際やってみると

 

別に文系大学院生でもシンクタンクコンサルティング業界以外の業界でも不利に働くことは無い

 

と感じた。

実際に、私はシンクタンクコンサルティング業界ではない全く違う業界の会社に就職するし、同じコースの同期を見ていてもシンクタンクコンサルティング業界からかけ離れた業界に就職する子がちらほらいる。

 

ただ、

 

ただね。

 

シンクタンクコンサルティング業界の方が、同期でも先輩に大学院生は多いから「文系院生」という属性で周りから浮くことはないと思う。

 

普通に考えて、文系大学院生というのは母数集団が極めて少ない。

 

就職活動の一環で死ぬほどアンケートとか企業から書かされたが、

自分の学歴を書く部分で 「大学」 という項目はあっても 「大学院」 という項目が無いアンケートも多々あった(「大学・大学院」という選択肢がある方が少数だった気がする)。

 

私が集団面接とか、グルディスの一環で自己紹介する時も「文系」の「大学院生」と出会うことって殆ど無かった。大半が学部生だった。

(ちなみにいうと、私はこの集団面接とグルディスの時に大学名を言って自己紹介をしなければならないパターンがとても嫌だった。ただでさえ、大学が大学なので周囲から「え?こいつやべえ」という反応に増して、大学院生であることを言うと「文系で大学院生?更にやべえ」という反応が返ってくる。これは本当に面倒くさかった。なので、面接官がいない時は以前在籍していた学部生の時の大学を言ったり、適当に「大学院では教育を専攻していて~」とか、或いは大学院名はあえて言わないようにしていた。)

 

だからまあ、シンクタンクコンサルティング業界の方がね、相対的に驚くほど院生が多い、というよりむしろ学部生がマイノリティレベルなので、「文系大学院生」という属性で浮くことはないと思う。

 

しかし思うに、その「属性」で「浮く」ということがあって居心地が悪い思いをするかっていうと、それは最初の方だけじゃないかなと個人的には思っている。多分働いたら学歴とかあんまり関係なくなるだろう。社会で働いたことは無いが、私は居酒屋のアルバイトで3年間近く働いていて、高校1年生とか専門学生の子とか学歴が全く異なる子とかと働いてきたが、働く上で「学歴」とか正直どうでも良いものとして扱われているのを感じる。結局、仕事が出来るかどうかが大事なのだから、別にそこに「学歴」なんかどうでも良いのだ。

 

第二に、院生の方が逆に研究を話すネタとして使える。

 

私は基本的に就職活動において、「アルバイト」と「修士研究」、それに付随して「海外留学」の経験を話していた。

 

私の場合、学部生の時にサークル活動に特に積極的に従事していた訳ではなかったので、学部3年生の時少しだけ就職活動をしていた時に「アルバイト以外に何を話そうかなあ」と悩んでいた。

 

結局、その後院進学を決めたのだが、院生として就職活動をすることになり「修士研究」を話すネタにすることに決めた。

 

これは割と良い決断だったと思う。

 

修士研究は、割と多くの人がそうだと思うが多くの時間と労力をかけて費やすものである。なので、修士研究関連の話で深堀りをされたとしても、それだけの多くの時間と労力をかけてやってきているから、しつこい深堀りに関しても(個人的には)困ることは殆ど無かった。

 

これで逆に、とてもじゃないがすごい頑張ってたとはいえないサークル活動に関して盛って盛って盛って話すよりは断然にこちらの方が良かったと思う。

 

幸いにして、私の修士研究は割と珍しいテーマだったので、よく人事の人に興味深そうに聞いてもらうことが多々あった。

 

まあ、なので「文系大学院生」という「属性」が就職活動が不利になるということは、私の経験上無かった。

 

だが、しかし。

 

現文系学部生が修士課程に進学して、なおかつ「民間企業」に就職をしたい!と考えているのであれば、私個人的にめちゃくちゃ「これだけはやっておけ!!!!!」というものがある。それは、

 

学部3・4年生の時に、企業訪問と研究やっとけ!

 

だ。

 

何故なら、修士課程の2年の学生はまじで、圧倒的に時間が足りねえからだ。

 

正直これは修士学生が何の調査方法によって研究するかにもよるとは思うのだ。

例えば、歴史研究や統計分析などを用いて修士研究のテーマにするのであれば、もしかしたら恐らく修士2年の4カ月あまりを研究の空白期間にしても問題ないのかもしれない。

 

しかし、私の様な、人を探してインタビューをしたり、特定の場所に入って長期間エスノグラフィーをやる人間、まあつまりいうところの質的研究法によって修士研究を行う学生は就職活動の為に4カ月あまり研究をしないとなると、超焦る。

 

え、これ研究大丈夫カナー

 

とか。

え、これで修士論文とか書けるのカナー

 

とかね。

あと普通に、文系で大学院進学しているということは、それは多分恐らくだが勉強することが割合好きでそういうことに長時間費やしても厭わない学生だろう。そこで、4カ月あまりを就職活動の為に無に帰すと、

 

研究する為に大学院進学したのに、何もこの4カ月何も出来てないじゃん。院進した意味??????????

 

という状態になる。

しかも就職活動を踏まえた文系大学院生は基本的に、修士課程1年でほぼ全ての卒業単位をとろうとする為に、なんかあんまり研究に時間を費やしている感がない(いや、これは私だけかもしれないが)。

 

だからこそ余計に、修士課程2年になり就職活動に入ると、「あれ私の修士研究大丈夫…?」状態になるのだ。

 

しかし、かといって新卒の就職活動を疎かにすることを私はオススメしない。

確かに世間は転職市場が成熟してきて、「会社に合わなければ辞める」時代にこそなっているものの、新卒就職活動の圧倒的なメリットは

 

学生だからこそ、様々な業界の会社が見れる

 

ということである。このことは、就活を通して出会った多くの企業の社員と、既に就職した友人達が口を揃えていうことだ。

 

新卒就職活動ではなく、転職活動をちょっと想像して欲しい。

 

まず、転職活動というのは難しい(らしい。聞いた話であるが)。

何が難しいかというと、働きながら転職活動をすることが、だ。

もし東京勤務であれば、まだましだが

それが地方勤務であった場合、企業の説明会は大体東京とか大阪で行われる訳だから毎回そこまで飛ばなければならないことになる。

また、第二新卒扱いで転職をする気であれば、

説明会は基本的に平日で行われるので現在勤めている会社を有給とって休むかなにかをしなければならない。

そして何より、平日9時ー5時で働きながら、その後、もしくは貴重な土日休みの時に転職活動の準備をするのはどう考えても労力のかかる行為である。

じゃあ現在の仕事を辞めればいいじゃないかという話にもなるが、

まあそれでもいいとは思うのだが転職活動が上手くいくという保証もない中で現在の仕事を辞めるというのは中々リスキーな行為であるといえるだろう。

 

要するに、

新卒就職活動で時間がある時に企業訪問・研究をしておけば

「世の中にどんな企業があるのか」ということを転職活動の時に改めて学ぶ必要は無くなるということだ。(しかも社会人になったら、そう簡単に他社訪問というのは出来なくなる。)

 

あ、それでね(話がずれた)。

新卒就職活動の時にちゃんと企業訪問・研究をしておけという話だが、

それで、文系大学院生が修士課程2年の3月から馬鹿正直に0からやり始めるにはもうあまりにも時間と余裕が無さ過ぎる。ということなのだ。

 

なので、そう考えると相対的に時間と余裕のある学部3・4年生の時にちゃんと企業訪問と研究をやることを私はオススメする。

どうせその時、大半の友だちも就職活動をやっているだろうから、それに合わせて企業訪問とかOBOG訪問とかやっちゃえばよいのだ。

それで「あ~この業界興味あるな~」とか「この業界やっぱ興味ないな~」っていうのを漠然とでいいからわかるようになっておくとよいと思う。

その業界のある会社が気になるのであれば、その時点でその会社を受けても良い訳だし。(別に大学院の修士課程は、今進学しなくても社会人になってから入りなおすことも出来るし)

 

そうすると、修士2年になった時に、受けたい業界・企業も明確になって少しは就活が楽になるんじゃないかなあと思う。(幸いなことに、私も学部生の時に企業研究をちょっとやっていたので、「この会社は興味無かったな~」っていうところは院生の時も説明会を省略させたりすることが出来た)

 

あともう1つやっておいた方が良いなと思うのは、インターン

 

これは別に学部生の時でも良いし、修士課程1年の時でも良い。

これはね、やっておいた方が良いと思う。

その中でも、2週間とかの割と長期間インターンで、実際の仕事に近いことをやらせてもらえるやつが良いと思う。

 

で、何故これが良いのかというと、

その企業とかその仕事に自分が向いているのか向いてないのかが分かるから。だ。

 

私の体験談だと、私は日系大手コンサルティング会社に割と実務を体験するインターンをした。これは本当に良かった。お金もくれたし。

あと何より良かったのは、

「私、コンサルティング会社向いてないな」

 

ってことがハッキリと分かったからだ。

どういう所が向いてないと感じたのかは割愛するとして、これが分かったのはとても大きかった。それまでは、先輩達の多くがコンサルティング会社に行くので自分もまあそっちかなと適当に思っていた。

しかし、コンサルティング会社が向いてないなということが分かったあと、「もの作りをやっている会社」への興味とか「意思決定のサポートじゃなくて、実際に意思決定をする場に関わりたい」という自分の思いとかに気づいて自分なりの就職活動の軸を作り直すことが出来たからだ。

 

なので、インターンはオススメ。

 

あと、ちなみにインターンを受けたことで、早期インターン選考などもある為、志望度が高い会社のインターンは行ってみる価値があると思う。

しかし、インターンをやったからといって、選考に有利になるわけではない。実際に、私はインターンをした会社を本選考で落とされたし。

一方で、インターンからかなり多くの人数の学生を先に囲って採用する企業もある。

なので、まあ結論から言うと、インターンをやることで本選考に有利になる場合とならない場合があるが、どちらにせよ得るものは大きいのでやっておいた方が良いで。

 

ということ。

 

ここからは、文系大学院生の就職活動についてちょっと総括というか、感想?みたいなものを言っておきたい。

 

就職活動において、文系大学院生は、文系大学院生という「属性」というよりかは、文系で大学院進学をする人達の「性格」によって選考を落とされてたのかもしれないなと思った。

 

私もだとは思うのだが、一般的に(こんなざっくりした言い方で申し訳ないが)大学院生は理屈っぽい。し、まあ多くの人が学部生の時に就職をする中で、大学院に進むわけだから、「ちょっと変わってるのかな~」とか「周りと協調性とれんのかなあ」みたいな点で企業の採用側としても「こいつ採用しても会社で上手くやっていけんのかな?」的なことをね、考えて文系院生を落としたりすんのかな、と思う(これは悪魔で私の想像なので、確固たる根拠はないことを先に行っておく)。

 

なので、厳密にいえば選考で落とされているのは、文系大学院生という「属性」ではなく、その文系大学院生になることを「わざわざ」選んだその人自身の「性格」なのではないかと考える。

 

その為、私自身も何回も就職活動の中で尋ねられたが「何故周囲が就職する中で、大学院に進学したのか」を論理的に且つポジティブに伝えることが出来れば良いのだと思う。(ちなみに、私は正直に「もう少し勉強がしたかったから」と答えていた)

 

あと、恐らくなのだが。

もし文系大学院生という「属性」によって、企業の選考で落ちるということが過去の出来事として事実だったとしよう(いや、多分事実だったのだ。)。

 

しかし、恐らくその様な時代はもう終わっている。

何故かというと、現在日本の企業は少子化によって圧倒的に人員が不足しているからだ。

 

圧倒的人員不足な現状において、恐らくだが「文系大学院生だから落とす」ということは言ってられなくなったのだろう。

 

それくらい、現在文系大学院生の就職活動の状況は属性判断されることはほぼなくなったと言っても良いと思う。

 

ただ。(ただただばかり言って申し訳ない)

 

正直、2020年以降の就職活動に関してはどうとも言えないなあと思うのが正直なところだ。

 

オリンピックが終わると、必ず経済は停滞する。

その時に、被害を受けるのは新卒の就活生だ。

その際、文系大学院生という「属性」が再び不利に働くかもしれないということは…まあでもなんともいえないなということである。

 

まあそんな感じです。ざっくばらん。

でもさあ、そんなこと言えるのは、お前が東大の大学院だからじゃね?という反論が来るかもしれない。

でも、東大の文系大学院生といったって、私14社中12社落ちましたけど。

 

あと、もし今でも文系大学院生は「ちょっと…」という会社があったのだとしたら、

その企業は多分遅かれ早かれ潰れると思うので行かない方が良いのではと個人的に思う。

そんな属性判断するような会社に入っても多分楽しくないと思うのだ。うむ。

 

なので、自分が文系大学院生であるという「属性」に不安を抱かず、

民間企業に行きたければ不安がらずに民間企業を受けて欲しいということでした。

 

 

 

 

 

最近考えたことをつらつら

【まず1つ目】

(私の就職活動の終わり)

 最近ようやく就職活動が終わり、研究活動にシフトしようとしている今日この頃。

就職活動は辛くもあり、というか辛さしかなかったが、第三志望だったものの第一志望業界のところに内々定を貰った為に「よし、まあここで良いだろう」という感じで終了した。終わるとあっけないもんだなーとも思ったりした。まあ、受け入ていた企業からどんどんとサイレント反応で、最後の最後には持ち駒がもう3つ位しかないという状況だったため、自分の意志で決めたというよりも「もうそこの企業にせざるをえなかった」という方が強かったためだろう。

 しかし、その企業から内々定を貰い(何度も内々定メールを確認した)自分でも色々考えたが、やはりこの企業が現時点では私にとってベストであろうという判断を下して、就職活動を終えた(ここに関しては、私の両親とかなりの対立があったのだが、そこに関しては今回は割愛したい。6月26日時点では、ラインによる母親の説得を行った結果、割と母親に関しては関係回復している)。というのも、当初自分が「ここだけは譲れねえ!」と決めていた就職活動の軸並びに、「こういう労働環境下で働きてえ!」という自分なりの基準にその企業が全て当てはまっているからだ。また、学部3年生の頃からちょっとずつ見てきた企業数はざっと70社。その中でも、現時点の自分が行きたいな~と思っていた第一志望業界の企業から内々定を貰えたという点で、まあ完璧でこそはないが、「悪くはない、いやむしろ上々」の結果だと考えている。

 

(就職活動をした社会学専攻の院生が考えたこと)

 別に大してことではないのだが、多くの企業の人事や働いている人と説明会や対談で話すと、割と多くの人が

 

「まあね、とりあえず入社しちゃって。こんなのをいうのもあれなんだけど、合わなかったら辞めればいいから(笑)」

 

と言っていた。この言葉一つをとっても、現在の日本社会において1つの会社にずっといることが当たり前ではなくなっているという状況が如実に分かるなあと感じた。こんなこと、多分バブル時代とか、一昔まえの就職活動では聞かなかったんじゃないかな。「1つの会社に40年間いるわけだから、会社選びは慎重にね!」とか言われたのではないか。

 

 次に、まあこれはよく言われると思うのだが、

 

「新卒就活は最終的に『ご縁』だから」。

 

 これは受けている企業の若手人事にも言われた言葉だ。ちょっと納得しそうになる自分がいるけど、敢えてツッコミたい。

 

「いやいや、縁(えん)ってなんだよ(笑)」

そんな良く分かんねえ曖昧なものに一番最初の職業を決めさせられてたまるかー!

てか、そんな「縁」とかって、外国の人とかにはなんて説明すんだよ。

 

 意外に、この「よく分かんねえ曖昧なもの」っていうのがかなり此処ではミソで、恐らくこの「縁=よく分かんねえ曖昧なもの」は、如実に新卒就職活動の採用基準の不明確さを表しているように感じてならない。

 

新卒就職活動の採用基準は、我々学生側には不明確だ。

 

幾ら面接対策をし、履歴書をちゃんと書いたとしても、落ちる時は落ちる。その時は、「その会社に自分は合わなかったんだ」と思ってその会社のことは諦める(実際、自分の所属大学のキャリアサポートの人にも、落ちたら「その会社に自分は合わなかったんだ」と思いなさいと言われた。)

 

でもさあ、それでも分からないよネ。

 

選考に落ちたとしても、何故落ちたのかの理由は明らかにされない。

いやでも、学生側からしたら何故落ちたかが明確であれば次の対策にも繋がるようなものだ(うちの会社のこと貴方の此処が合うか分からなかった。みたいなことを言われれば、「あーじゃあ自分はこの業界向いてないのかもな~」とか思って、早目に就職活動の動きも帰ることが出来るだろうに)

 

「縁」

 

そんな外面の良い言葉で、新卒就職活動の採用基準の不明確さを巧妙に隠しているつもりでいるのか。ぷんぷん。

 

【もう1つめ】

(謙虚さ)

 最近、コースで教育関連の有名な人が学校に来てくれたので、その人の話を聞きに行った(誰のことからは、同じコースの人には分かるだろう)。

 その人の話を聞いて、まず第一に私が持った印象は

 

「割とリベラルな考え方の人だな」

 

だった。様々な観点から右傾化していく現在の日本の教育を批判していた。私は、ふ~ん、あんな組織の中にもこういう、ちゃんとした人がいたんだな、と思った。

 しかし、次第にその人の話を聞いて、次に私が抱いた印象は

 

「なんか随分と不遜な言葉の使い方をする人だな」

 

だった。自分の考え方と組織の考え方が衝突した際、何故貴方はその仕事を続けられたのかというような質問を学生が尋ねた時に、「とりあえず、自分より馬鹿な人がこの仕事をやるよりは自分がやる方がましだと思って」と言っていたり、またある特定思想を持った人達のことを「あの人達は頭が悪いですよ」と言っていた。

その時、自分の中に妙な違和を感じた。

 

そんな時、今日以下の様なツイートを自分のTwitterのタイムラインで見たので引用させてもらう。

 

 

「ぼくでなければいけないから」ではなく、「誰でもいいけどぼくがやらせてもらってる」

 

もうこの言葉だ!としか言いようの無かった。

どんなに、その仕事に就くことが難しく、やっていること自体が難しくてもこの様な態度を忘れてはいけないんじゃないかなあと個人的には思った。

 

また、これは私自身の修士研究にも言えることで、

これは私でなければいけないから、というより本当に「私がやらせてもらっているのだ」。このやらせてもらっている、という態度は当事者と関わる上で絶対に忘れてはならないことではないかと思っている。

 

先ほどの話に戻る。「あの人達は頭悪いですよ」という言葉にどれだけの差別的表現が含まれているだろうか。

 

そりゃ、東京大学を学部から入学した貴方にとったら、日本社会の大半の人達が愚かに見えるだろう。

しかし、そういった無意識に内面化しているエリート思想、もっといえば選民思想、差別思想が、私には現代日本の現在の社会の分断の元に思えてならない。

 

その発言を聞いた時、私はクラス中を見回した。

此処には、東京大学の学部生や東京大学の大学院生、東京大学の教授などが肩を並べている。

 

私も含め、此処にいる全員が、社会を研究する上では「外れ値」扱いをされる(つまり、日本社会の全体像からは少し外れた位置に存在している)ことについて、もう少し意識的にならなければならないんだよなあ、と思ったのでした。

 

【もう1つ】

(言語と、)

 

英語が出来る、だけじゃ意味が無いんだよなあと最近常々実感している。

私はこのことについて恥ずかしいことだが、最近まで誤解をしていた。

英語が出来るってのはかなりのアドバンテージなんだと自分では思っていた。

いや、確かに英語が出来ることで、英語の論文や本も読めるし、簡単な日常会話だったら英語を話す人とコミュニケーションがとれるし。それらは間違いなくアドバンテージだ。

けど、最近思うのは、英語という言語は結局「器」なのだということ。

その器に何か乗せるものが無いと、結局器だけ持っていてもそれはただの「空の器」なのだ。

乗せるものは何でもよい、

自分の専攻している学問、自分の好きなスポーツ・楽器、自分の好きな趣味、自分のしている仕事内容…などなど。

 

私は今まで、器を手に入れることばかりに躍起になっていた。

その結果、そこに乗せるものに頓着しないようになっていたのだ。

今更になって、この様だ。情けない。いや、社会人になる前に気づけて良かったな。

 

ところで、私はものすごく飽きっぽい。

とにかく飽きっぽい。

飽きっぽい上に、集中力がない。

 

だからこそ、これまで習い事なども途中で投げ出してばかりで

全く身につかなかった。これは良くなかったなーとか思っている。

 

新しいことにチャレンジするのは好きだ。

しかし、新しいことの一番最初の「甘くておいしい部分」だけを齧って、あとはポイッと捨ててしまう。

 

なんでだろうなあ。

恋人やパートナーに関してだと、私は1人の人に対してかなり「ジックリ」タイプなのに、何故趣味とか学問に関しては「次から次へと新しいものを」タイプなのだろう。

 

一貫してくれよ、そこは。

まあ、恋人やパートナーに関しては「何故変えないのか?」と聞かれたら

「新しい人に手を出して、現状のパートナーとの関係性まで構築していくのが面倒くさい」のと「新しい人に別に手を出す必要のないほど、現状のパートナーに満足している」という2つが挙げられるだろう(後半惚気てしまった)。

 

そうだ、私はめんどくさがりでもあるんだなあ。

でも、新しい学問とか趣味に手を出すのはめんどくさいとは思わない。

 

新しいものに手を出す必要のないほど、現状に満足しているに関しては

あーうんまあそうね、パートナーに関してはそうねって感じだ。

思えば、今の交際相手と付き合って4年位経つが今振り返ってみると、交際する上で相手と違ってめんどくさくなるポイントがあまり発生しない相手だったなと思う。

 

そのめんどくさくなるポイントはまず第一に、連絡頻度。

相手と自分の連絡頻度が少しでも食い違うと、これまたメンドクサイのだ。

食い違った時の妥協点を探り、お互いが合わせなければならなくなるのも結構な苦労だ。

 

あとは、関連して遠距離・近距離問わずデートの理想的頻度とかね。

これも食い違うと悲惨だ。

 

ここら辺に関して、現状の交際相手と衝突することはほぼなかった。

どちらも多分めんどくさがりで、別に毎日連絡しなくてもいーしみたいなタイプだった。まあデートに関してもそうだった様な気もする。いや、多分考えてみると向こうが割合私の要求することに柔軟に対応していたからかもしれんナ。

でも割と性格が似たもの同士で、お互いにお互いのことを過干渉することが嫌いなタイプだからこそ馬が合ったのかもしれない(しかし、向こうが潔癖症の気があって私が死ぬほどズボラなところには毎度世界大戦並の火種を感じざるをえない)。

 

以前、仲の良い友人の1人に、「一番最初の交際相手で、そんなにタイプが合う人と付き合えるのは奇跡的」と言われたことがある。

そうかもしれない。

 

だって、そもそも最初に今の交際相手と物理的に出会った時、この人は私とウマが合いそうだな~みたいななんてこれっぽちも思っちゃいなかった。

 

ただ単に、頭良さそう、肌白い、真面目そう、顔好みダナーで好きになったし。

あんまそこらへん戦略的に考えてなかったナ。

 

だからこそ、友達の「新たな良い相手を見つけるにはどうしたら」とか上記に記した「メンドクサイポイントが食い違った、どう対応しよう」かという悩みにイマイチ十分話される相手やくとして役不足となってしまう感があるんだろうな~とか思う。

 

話がずれた。

 

そんな馬の合う人を見つけられたのに、学問や趣味に至っては「これだーーー!」というものと出会っていない。いや、出会ったのかもしれないが、なんかしらの形で水を与えず、子葉しか出ていない状態だ。

今後はというか、この20代は、自分のライフワークとなるものを見つけること。

新たな挑戦をしても良いが、自分の得意なものを自覚してそれに努めて伸ばしていこうと思う。

 

【最後に】

(もう研究しないの?)

 

博士課程に進むことは、大学院に進学する時から考えてはいなかった。

でも、就職活動の時もやっぱり博士進学は考えなかった。

それには幾つか理由がある。

 

1つは、家にまじで金がないこと。

無い訳じゃあないんだが、私が一人っ子アンド両親が無趣味で子どもにしか金使わないみたいな状況で私が割と自由に家のお金を使っているという状況なのだ。

この状況がいつまでも続くわけじゃないってことは自分でも分かっている。

しかも実際、父が定年退職して、元々安い給料が更に安くなり、しかも父は癌に罹患して治療費も出さなきゃいけない。

そんなことを考えたら、とりあえず私には経済的自立が何より優先事項だった。

 

1つは、研究というより勉強が好きなこと。

研究って、多分学問の新たな知を発見していくことだと思うのだが(すごくざっくばらんに言うとだが)、私はそれよりかは既存の自分の知らない知を学ぶのが好きなんだなーと大学院に進学して再確認した。これは割と大きい。

 

1つは、まあとりあえず社会で働きたいなと思ったこと。

働いてお金がもらえる。

それはそれで面白そうだなーと思った。

博士進学した後で、通常の民間企業に就職するのは文系じゃまず難しい。

社会人経験を積みたいなら、まあ今出るしかないだろうっていうこと。

 

あともう1つは。

自分が今当事者研究に関わっている中で、「研究ってこんなに難しいんだ」と強く感じたことだ。これは、私が当事者・マイノリティ研究に関わっているということが強く理由に挙げられるかもしれない。

 

有名な社会学者の岸政彦先生も多分どこかで言っていたと思うのだが、

当事者の生活に入っていく研究者のする行為はある意味で当事者にとって暴力行為なのだということ。

 

何より、私はその当事者の当事者たる部分に数カ月、数週間、または1日の数時間しか関わらないが、

その当事者の人たちにとって、当事者たる部分は私の様にある恣意的な時間のみに関わるものではない。一日中、24時間、その一生関わっていくものなのだ。

 

その非対称性に、

正直私はどう向き合えば良いのか分からなかった。いや、今でも分からない。

 

私は、自由にスイッチングが出来る。

研究者として、当事者研究に関わる時と。

仲のいい友人と遊ぶ時と。

その2つが交わることは殆どない。

 

しかし、当事者にとって、その様なスイッチングは無い。

ある時も、どの瞬間も、その当事者が当事者たる部分と付き合いながら生きている。

(当事者という言い方はここでは申し訳ないが、便宜上用いている)

 

岸政彦先生は、どこかで博士論文を書き終えた後、数年間何も書くことが出来なかったといっていた。

 

私はすごく共感する。いや、修士論文も書いてないお前に何がわかるという感じだが、

それだけ「他者が他者を描写する」という行為は難しいものなのだ。

 

私も同様に他者を描写する。

 

しかし、私が他者を描写する時、

私の狭隘な脳の理解力で他者を理解しようとし

私の貧困な語彙力で他者を表現しようとする時、

他者の大事な何かを損なわせているのではないかと思わざるを得ない。

 

研究という行為の暴力性。

 

私は正直、それに向き合いながらこれからも研究をしていくのは難しいと思った。

 

 

なので、今回は博士進学は見送ったわけだけれど、

別に将来博士進学する可能性はある。

 

まあなんとなくそう思うだけなのだけど、そんな予感がするのだ。

結局私は学問は好きだから、また思い直して大学院に入りなおすかもしれない。

それはそれで良いと思う。

 

その時までに、自分の人生のライフワーク的なものを見つけられればなと思う。

これをやるために自分は生まれてきたんだ!位のものを。

 

 

 

 

 

神谷悠介「ゲイカップルのワークライフバランス 男性同性愛者のパートナー関係・親密性・生活」

「ゲイカップルのワークライフバランス 男性同性愛者のパートナー関係・親密性・生活」

神谷悠

新曜社 2017年

 

 明けまして御目出とう御座います。今年も宜しくお願い致します。

 今年はもう少しこのブログを読書録として使っていきたいなあと思いまする。

 

 この本を見つけたのは、昨年の社会学大会の目録の後ろの方の広告を見たからでした。割とLGBTのことに関しても興味関心があり、「へえこんな本が出るんだな、面白そうだなあ」と思って先日ようやく出版されたのでアマゾンでポチリしました。

 以下、私の気になったとことか思ったことをぽちぽちと。あまり、読まれることを想定して書いてないので読みづらいかも。まあ、コメントとして。

 

p.32
ミシェル・フーコーは近代社会において同性愛者のアイデンティティが構築されるメカニズムを、医療化や近代国家による人口への関心に焦点を当てて解明した(Foucault 1976=1986)
ジョン・デミリオは家族を基盤とした家内経済から資本主義の自由労働システムの移行によって、異性愛家族の外部で同性への性愛的/情緒的関心に基づく個人生活が可能になったとしている(D’Emilio 1983=1997)

 このフーコーの方の、構築されるメカニズムと、医療化や近代国家といったマクロな視点がどう結びついたのだろう。研究をしている中で?
 このデミリオの研究も、同性での個人生活が可能になった要因も家内経済から資本主義の自由労働システムといったマクロな視点に結びつけることが出来たのだろう。

 勿論実際このフーコーとデミリオの論文を読まなければいけないとは思うのだけれど、自分が最近質的調査方法を学んでいく中でこの自分の研究は随分と「時」と「場所」と「対象」をとても制限した中で行われることだと思う様になった。まあだからといって研究の意義が無いとは思わないのだが、自分の研究がこの様なマクロなものに接続するにはどうすれば良いのだろうと思った。

p.50
調査票を用いてあらかじめ想定した変数のみで調査する方法では、想定されない変数による影響を分析することが不可能なため。

 量的調査法で用いられる変数生成のために役立つ質的調査。

 質的調査の利点というのは、幾つかあると思うのだが、やはり量的調査に用いられる変数を新たに発見することが出来るというのは質的調査法の良点の1つだと思った。

 やはり、質的調査を用いるのであれば、質的調査の利点をとことんまで生かすことが必要なのだろうなと思った。

 

p.79

ゲイカップルは家事を外部化しているかーにおいて、どの様な条件下において家事の外部化が進行するのか、しないのかに焦点をあてている。

 質問項目がなんだか、既存の従属変数に依存している気がする。質的調査法の利点というのは、既存の従属変数だけでなく新たな従属変数の存在を発見することではないのか。そもそも、欧米と日本では家事サービス化の進行程度に関しては大きな差異があるだろう。しかも、日本の方が同性愛者に対する偏見が相対的に強いのは明白だし、そんな状況下で他人をパートナーと共に居住する空間に入れることは容易なことではないだろう。
 それよりも、お金を何に使うかという所に質問を割けば良いのでは…?

p.100

 専業主婦になることを理想としている男性が出てきたが、何故彼がその様な理想を内面化する様になったのかが個人的には気になった。

p.106

仕事と愛情表現

 もっと質問項目も、知りたいこととダイレクトにつなげていくべきなのでは?と思った。例えば、「パートナーが沢山家事をしてくれると、大切にされていると思うか?」といった風に。掲載されている質問項目だけでは、「それは愛情表現というのか…?」と疑問だった。

 更に全体を通してだが、今のパートナーとだけでなく、過去に同居したパートナーとの家事分担の要因も聞けば良かったのではないか。その方が、家事分担の要因を更に見れる気がする。

 

 本著は、日本でも珍しくゲイカップルを対象とした、彼らのパートナー関係・親密性・生活を明らかにしたLGBT関連の研究ではかなり先駆的な研究になるのではないかと思う(あまり研究としてのLGBTの動向に関しては詳しくないのだが)。多分彼らの生活にアクセスするのも中々難しかったのではないかとも個人的に推察する。そんな中で子の様な研究が出来たのは素直に凄いなあと思った。更に、調査実施日や日時、依頼方法なども事細かに記していて、「あ~こんな感じなんだ」と質的研究手法をやっている1人として参考になる部分も多々あった。又、LGBT関連の周辺領域の研究紹介も具に記されていて、「なるほど、こんな感じで研究を網羅してんのか」と参考になった。

 

 ただ一方で、なんだか周辺領域の課題がぼかぼか出てきて、何だか結局どこを明らかにしてどこを明らかにしていないのか途中でよく分からなくなった。(いや、私の読解力にも問題あるとおもうのだけれど)それと、半構造化インタビューの中身を見たが、質的調査方法の利点である「語りの厚み」みたいなものがどこか薄っぺらく感じてしまった(いや、本当にすみません。私自身にも言えることなのだが)。恐らく研究の中身がかなりセンシティブなものであるからこそ、「削らなければならない部分」が多々あったのだろうと思う。しかし、それにしても質的調査法の良さを生かしきっているとはあまり思えなかった。というのも、他研究で用いられている従属変数を用いてインタビューを行っているからではないかと思う。勿論、この研究の第一義は「あまりよく知られていない日本のゲイカップルの生活の様相」を明らかにすることだと思うので、欧米の研究で用いられている従属変数を用いてそれを明らかにするだけでも研究の意義はあると思う。しかし、それだけでなく、この研究ならではの従属変数生成のカケラみたいなものを発見し、それをとっかかりに研究を進めていけばもっと面白くなったのでは?と考えもした。

 

とりあえず、こんな感じで感想終わり。

 

 

 

 

 

 

筒井淳也「結婚と家族のこれから 共働き社会の限界」②

第四章 「男女平等家族」がもたらすもの

 共働き社会の移行

 

 

 筒井は此処で、今まで「男性(稼ぎ手)と専業主婦」という夫婦の型が「男性も女性も働き手」へと社会が移行したのは、1つに経済が脱工業化したこと、もう1つに男性の雇用の不安定化が背景にあると言及しています(p.138)。

 

 正直、この事だけでも私にとっては非常に驚愕したというかなんというか…。何故なら、私はそもそも「性別を基準としない平等」的な、どちらかというと倫理的?視点から性別分業はオカシイと考えていたからです。つまり、男だから〇〇をして、女だから●●をする、という性を基準として物事を区別するのではなく、その性よりも前に「個の人間」を基盤にして、性を基準とした物事の区別の壁を取っ払いたいと考えていました。でも、この様な倫理的(倫理と呼んでいいのかは少し謎ですが)観点からではなく、上記の様ないわば経済的観点から社会が既存の性別分業から共働きという形態に移行するとは。勿論、家族は非常に経済的観点から構成されているものですから、「経済合理性」が一番物を言うのは当たり前っちゃあ当たり前なんですが…。

 

 少し話はそれてしまうかもしれませんが、「家族の形態」について私にインスピレーションというか、そういうものを最近与えてくれた漫画があります。

 

乙嫁語り 1巻 (HARTA COMIX)

 

乙嫁語り 1巻 (HARTA COMIX)

乙嫁語り 1巻 (HARTA COMIX)

 

  

 「乙嫁語り」という漫画で、マンガ大賞も受賞した漫画です。19世紀後半の中央アジアカスピ海を舞台にした遊牧民族だったり定住農耕民族の家族だったりを描いている漫画です(全巻持っているので貸して欲しい人がいたら友人知人限定で是非)。

 勿論、漫画なので美化されていたりしている部分は多々あると思います。しかし、この漫画での彼らの生活描写を通じて、自然と「男性は●●」をし「女性は〇〇」をするといった分業している姿を見て、もう一度自分の性別分業に対する嫌悪、というか。なんか考えをもう一度考え直そうと思った契機にもなりました。乙嫁語りの考察については次の機会で是非。

 

 もう1つ。言及しておきたいのが、面白いなと思ったのが最近私が読んだ本で、

桜井啓子著「イスラームを知る13 イランの宗教教育戦略 グローバル化と留学生」山川出版(2014年出版)です。ここでは、イスラームの宗教学院について詳しく書かれている本なのですが、この本の中で「女性の宗教教育」というテーマ下でイランの宗教学院のジェンダー観がこの様に紹介されているのです。

 

   「イランの宗教学院のジェンダー観の基礎となっているのは、男女は、生物学的な性差にもとづき、それぞれに異なった権利と義務を有するという考え方である。モハッタリー(一九二〇~七九)によると、「イスラームは男女が同じだという考えを受け入れないが、それは権利において男性が女性よりも優遇されていることを意味しない」という。ハーメイニーは、「イスラームは、人間の価値という点において男女は等しいとみなすが、与えられた役割という点では異なっているとみなす」と述べている」(桜井,2005,p.50)

 

 5万回目のウロコが落ちそうになった。

 成程、イスラームでは(勿論解釈によっても異なるのは重々承知である)性差によって、その期待役割は異なるがそれは権利の侵害だとか女性が低価値だとかに繋がっている訳ではないという。此処で思うのは、イスラームとでは「平等」の取り方が異なるのだということだ。男女という間には、生物学的な違いがあるのを元にしたうえで権利と義務が異なる。しかし、それはどちらの性に対して優劣があるという訳ではない。ふうむ。うーん。(ここら辺から口調が異なってくるんですが、此方の方が楽だし変更するのも面倒なのでこのままで)

 私が此処最近思うのは、「生物学的な性差」をどう私達は捉えていくべきなのだろうか?ということだ。私自身は、男女平等を掲げる人間だが、いわゆる「男」と「女」の間には身体的特徴、有する身体的器官が異なるのも事実だ。私は最近、これらの生物学的な差異に直視して、もう一度男女の間の「平等とは何か」を考える必要があるのではないかと考える。なんでそんなことを考えだしたのかというと、またもう一度漫画を紹介することになるのだが、以下の漫画を読んだためである。

 

 

大奥 1 (ジェッツコミックス)

大奥 1 (ジェッツコミックス)

 

  映画化されたこともあるため、割と知っている人も多いかと思うが、この漫画は簡単に言うと史実の大奥の男女逆転させた漫画である。成人男性にしかかからない病気が流行した江戸では、その罹患者が次々と亡くなりついに江戸における男女の人口比を変えてしまったのである。それで、将軍が女性、大奥に侍るのは男性という、いわゆる逆ハーレムな状態を形成していく…。

 しかし、此処で問題というか私が注目したのは、逆ハーレムって女性がイケメン男性を選び放題な訳だし、超楽しそうじゃん?と思っていたがどっこい、この漫画における将軍女性全く幸せそうではないということである。

 実際、筆者のよしながふみは(出典は明らかに出来ないのだが)この本について以下の様に述べたという。

    「この漫画で、一番性的虐待を受けているのは女性ですからね

 此処での漫画の女将軍は、子孫を残す為に子どもを産まなければならない。つまり、「どうやったって、子どもを産むのは男性ではなく女性」という「産む性である」という業から抜け出せない女性を(幾ら人口比が変わり、政治の要職に就けるのも社会で仕事をして一家を担う大黒柱が女性になったとしても!!)超絶リアルにこの仮想世界に落とし込んでいるのである。勿論、この仮想世界は特殊な事情をもって男女の人口比が逆転する、いわば有り得ない状況なのだが。それでも、そんな有り得ない事が起きたとしても、女性は生まれながらにして「産む性」であるということを私達読者に淡々と突きつけている気がしてならない。

 そこで、最近私はもう一度「産む性とは何か」ってところから全てを考えなおさなきゃいけないのでは?と思っているのである。(ちなみに、この大奥も非常に面白いので友人知人を限定に貸して欲しい人がいたら喜んで貸す)

 

 本文に戻ろう。次に、「日本の企業のなかには働きやすい環境を整えず、まだまだ「女性は実家通い前提」としているところがたくさんあるようです。」(p.140)

 この文章を読んで、私よりも早く社会人になった友人の一人がこの様なことを言っているのを思い出した。その友人は総合職で全国転勤型なのだが、その同期の女の子が肺属地が決まる前にこんなことを言っていたという。

 

   「女の子でも、容赦なく(地方に)飛ばすんだよ?

 そして、それを聞いた同期の男の子もそれに対して賛成で、「女の子にそんな地方に飛ばさなくてもなあ」といった要旨のことを言っていたようである。

 女の子でも、地方に飛ばすってどういうことなのだろうか。じゃあ、男の子ならば地方に転勤されて良いのだろうか。何故、女の子は地方に飛ばしちゃいけないのだろうか?女の子が地元にある親元を離れるのと、男の子が地元にある親元を離れるのと、何が異なるのだろうか?この日本社会には、やはり以前として「女の子は結婚まで親元の庇護にあるべき」という考えが未だ強く残っているのだろうか?

 

 もう1つ、私の経験談を話したい。これは、私が大学院受験を終え、先輩(ちなみに男性である)と将来の職業について話していた時だ。

   「お前は何歳まで働くつもりなの?」

と聞かれたので、

   「え?そりゃあ勿論、60歳とか、定年までですかね。」

と答えた。すると、

   「ふうん。そりゃ、お前はそうかもしれないけどさ。世の中にはそうじゃない奴もいるじゃん。女の人は、30歳くらいで辞めようとか考えている人もいるじゃん。でもさ、俺達(男性)はそうはいかないんだよ。(家族)養っていかなきゃいけないからさ。だから、この就活は結構重要なわけ」

 最初、私は先輩が何を言っているのか分からなかった。30歳で辞めるってどういう事?定年は60歳までじゃん。と思っていた。けれど、その後の言葉を聞いて、ああ結婚したら仕事を辞めるってことか、と思った。

 此処で2つの事を言いたい。

 1つは、やっぱりなんだかんだ言ったって、今の日本社会では「女性は結婚したら仕事を辞めてもいい」という考えがあるし、やっぱり一部の女性には最初から「結婚したら仕事を辞めてもいい」というオプションが与えられていると考えているということだ。いや、正直別に私はそれでも良いと思う。私の個人の考え方としては、自分と将来の夫とは、「私なりの価値基準で作られた平等」に基づいて仕事をし、家事をし、育児をしていきたい。けれど、勿論それが全てにおいて正な訳じゃない。社会は、異なる家族形成・形態を認めておくべきだ。ただ、私が言いたいのは「仕事を辞める」というオプションが女性にしか与えられていないという点に問題があると思うのだ。

男が専業主夫になったっていいじゃないか、結婚したら男が仕事を辞めていいじゃないか。

私はそのオプションの所在の不公平性に問題があると思うのだ。

 もう1つ。上の事と関連するが、このオプションの所在の不公平性によって、結局男性をも苦しめているのではないかということだ。上記の私の先輩の発言において、将来の家族の経済的支柱を担わなければならないという責任の重さから、先輩はどこか男性の職業選択の大変さを伝え、一方で相対的に大変ではない女性の職業選択について何処か文句を言っているようである。…まあ、こんなことは私が此処で改めて意見を言わずとも既に社会学・家族社会学の領域で何重も言われていることなのだが。

 しかし、それでも日本社会は変わらない。勿論、変革の波は少しずつ押し寄せてきている。しかし、それはとても遅々としているし、小さい。

 いまだに、この社会は「性」というものを絶対的な二項対立の概念として、世界を区別している。

 「性」って、そんなに重要な区別の基準なのか?

 私はそんなことを思わざるを得ない。

 

 さて、次。数ページ飛ばして、筒井は厚生労働白書のデータを持ってきて、「婚外子数の国際比較」を持ってきている。ちなみに、婚外子とは結婚関係にない男女の間に生まれた子どものことを指す(もしかしたらもっと厳密な説明があるかもしれないが、ここでは簡単に)。

 日本の圧倒的な婚外子の少なさ。ヨーロッパや北欧なんかでは、結婚せずともカップルで子どもを作っても手厚いサポートが国から施されるので、結婚せずとも子どもを産む人は多いのである。

 個人的には、社会学的な視点からこのヨーロッパやアメリカ、スウェーデンの中でも一体どの「社会的階層」に属するカップル同士が子どもを産んでいるのか気になるところではある。例えば、アメリカなどでは(分からない、個人的な推測に過ぎないのだが)社会的階層が低いカップルで子どもを出産するが、スウェーデンといった福祉国家では相対的に社会階層が高いカップルで子どもを出産したりといった国際間でも階層の違いとか存在しないのかなと思ったりする(誰か詳しい人がいたら教えて欲しい)。

 もう1つ、婚外子には直接関係しないかもしれないが、最近世間を騒がせている芸能人や議員の「不倫騒動」について言及したい。連日、ワイドショー等で芸能人や議員、お笑い芸人の不倫騒動についてひっきりなしに報道しているが、私はふとこの様子を見てこう思った。

 「すごいな、テレビのコメンテーターも視聴者の私達もまるで断罪者きどりだなあ」

 ワイドショーのリポーター達は、そしてその番組の街頭インタビューに答える一般人の人達は次々と厳しい言葉で、世間を騒がせている不倫について断罪していく。でも、私は思う。「私達にこんな、人を裁く権限などあるのだろうか」メディアを通して、番組の出演者と共に我々視聴者もいつの間にか公の場で、いや、社会といった方がいいだろうか、不倫を断罪する。

     しかし、正直私には何故あれほど周囲を巻き込んで彼らの不倫を断罪しなければならないのかが分からない。例えば、議員であれば税金を勝手に不倫相手とのホテル代に使ったとかならまだ分かる。税金は私達が払っているものだし、公共の利益を追求しなければならない議員のするべき行動ではないだろう。しかし、それ以外は?お笑い芸人の、芸能人の不倫は何故公の場で裁かれなければならないのだろう。彼らが裁かれるのは、私的領域に位置する自分の家族や不倫相手の家族とかであって、全く関係の無い私達ではないだろう。

    まあきっと、他人の罪を断罪する立場に自動的になれるというのは、優位な気分になれるだろうし気持ちの良いことでもあるのだろう。しかし、最近のメディアの不倫騒動はまるで集団リンチだ、と思う。

 

 以下、この本で面白いところだなと思ったのを2つほど。

 

後、フランスでは分割課税によって出生力も高いが、子どもを作れば作るほど税率が低いのでアメリカや北欧に比べれば女性活躍が少ない(p.195)とか、

北欧では男女で異なる職業に就く「性別職域分離」が進んでいるため、アメリカに比較してまだ民間企業は男性的である、つまり女性管理職数はアメリカに比べて低い(p.135)

というのは、私にとって非常に驚きで「本当かよ?!?!」という感じなので、また詳しくフランスや北欧の男女の働き方についての本とか読んだら此処で取り上げることにします。

 

もう1つ、私が最近興味をもっているのが「同類婚」についてで、これももっと深い話がしたいのでまた別の機会に個別で話が出来たらと。

 

 筒井淳也のこの本は、本当に面白く本来であれば全ての章を取り上げて私が思ったことを書き連ねていきたかったのだが、なにせもうこれ書くだけですげー疲れるからとりあえず私が言いたい!ってとこだけは此処にまとめ上げた。本当に面白い本なので、これもまた興味がある人がいたら友人知人を限定に是非貸し出したい。付箋ばりばり張ってすげー見にくいのを妥協してくれればだが。

 

 

筒井淳也「結婚と家族のこれから 共働き社会の限界」①

筒井淳也

「結婚と家族のこれから 共働き社会の限界」

光文社新書 2016年 第一刷発行

 

 大学院の友人に薦められて、「面白そうだな~」と思ってアマゾンで即購入した本。

 余談だけれど、この本を探しに割と大きな有名店の本屋に行ったら無くって。店員さんに「取り寄せたらどれくらいですか?」と尋ねると「まあ~水曜日(3日後)くらいですかねえ」と言われた。Amazon Primeに入会している私は、Amazonで購入すれば翌日に届くことを知っていたので、本屋で取り寄せはやめにしてAmazonで購入することにした。こういう事って、私以外の人でも割とありそうで今や本屋で「この本取り寄せしてくれませんか~?」ってことは激減しているのではないかと推測する。こういうのって、やっぱり本屋の収益減とかに繋がらないのかな、それとも本屋としてもこういう現状を鑑みて別の対策とかとってんのかな。

 という訳で、以下本の内容を第三章から取り上げて、私が思ったことをぼちぼち書いていこうと思います。

 

第三章 「家事分担」はもう古い?

 圧倒的不公平

 ここでは、筆者が家庭における家事〈分担〉(筆者が引用つけているのでママ)の実証研究を紹介しています。つまり、家庭における家事〈分担〉はどの様に決定されているのか?というものです。先行研究では、その規定要因は2つあると言及していて、1つは時間、もう1つは経済力だそうです。(つまり、長時間労働に従事しやすい夫に比べてそうでないことが多い妻の方が時間的余裕があるので、家事をする。もう1つは、長時間労働に従事しているため経済力を持っている男性は家庭での仕事である家事を免れることが出来る。)

 しかし、筆者は上記の2つの要因だけでは、日本の家事分担の不公平性を全て説明出来ていないと主張をしています。此処で私が一番衝撃的だったのは、筆者の調査によれば、

   「夫がすべて稼いでいる状態から、稼ぎの額が夫婦同じである状態まで妻が稼ぐようになっても、平均的には夫婦間の分担はあまり変わらなかったのです。」(p.103)

 

  ええ~~~変わらないんか~~い

 筆者は次の「不公平の理由」という題の下で上記のことを説明する手を幾つか紹介しています。

 ①イデオロギー仮説というもので、つまり性別分業「妻が家庭のことをして、夫が仕事をしに稼ぎにいく」という考えに対して肯定的な人間が多いのではないかということ。

 ②筆者はここでアメリカにおける研究も紹介していて、そこでは「敢えて女性が家事を手放さない」ということだそうです。つまり、「女性が「家庭の責任者」としてのアイデンティティを維持したいがために、容易には夫の参画を認めない」(p.106)ということだそうな。

 ③男性が「敢えて家事をしないことで、その男性役割を維持しよう」(p.106)ということ。つまり、男性が家事をしないことは、男性のアイデンティティ形成に寄与するという。

 

 まず、この②に関しては、最近私が見たニュースの記事を思い出しました。

headlines.yahoo.co.jp

 これは、9月2日のyahooニュース配信のものですが、この記事の下の方では電車内で赤ちゃんを抱っこしている男性に対して、恐らく育児を既に経験した中年高齢女性がこう言うです。

  「でもさ、やっぱり父親じゃダメね。お母さんだったら、あんな抱き方はしないはずだもの」(引用ママ)

 

 悪魔で私個人の意見だけれど、上記の発言からは以下のことが考えられると思っています。1つは、「女性がする育児という領域から父親を排除した方が良い」とする考えをこの女性が無意識下にあるのではないかということ。此処で注意しなければならないのは、確かにこの記事で紹介されている男性の育児も少し「問題」があるという事です。この記事の先には、この父親が抱えている子どもに対して最大限の配慮が出来ていないという点が指摘されています。しかしそうだとしても、それは「この父親一個人」の問題であって、それなのにこの男性を見ていた女性は「父親全て」に一般化をしてしまっています。そこには、やはり強い性別分業意識、いや縄張り意識があって、「お前はここに入る素質はそもそも無いのだ」と言っているような気がしてならないのです。

 もう1つは、上記のことから少し外れるが、この電車の光景はやはり男性の育児関与時間が未だ日本では少ないことを表しているのではないかということ。確かに、今までの日本では男性が子どもを電車の中で抱きかかえていて育児をしているなんてありえない光景でした。そこから考えると、やはり男性の育児参加時間は相対的には増加したことが言えるでしょう。しかし、この男性の子どもに対する配慮不足を見ていると、常日頃子どもに関与している時間が少ないことが起因しているのではないかと考えざるをえないのです。つまり、妻がいつもは面倒を見ていて、休日だから夫が面倒を見る(いや、良いとは思うんだけど!)。その全体的な育児参加時間の不公平性が(父親そのものの育児資格云々よりも)この夫の育児への配慮の無さを作りだしているのではないかと考えざるをえないのです。

 

 次、③についても私が最近読んだ記事と関連があるかと思い、以下紹介します。

gendai.ismedia.jp

 この記事ももんのすっごく面白くて、しかも今年9月13日に公開された超最新の記事。

 この記事は、上記の「家事」「育児」とは異なり、「介護」に関するものです。

この記事は、男性がいわゆる社会学の用語でいう「ケア労働(家事・育児・介護)」に携わりたくないのかを「支配」という観点からの説明を紹介しています。此処では、簡単に言うと、妻に自分がしたくない「ケア労働」を押し付けたい、「任せたい」という支配の志向が存在することを言及しています。そして、アメリカの老年学者、トニ・カラサンティ氏の興味深い調査を紹介し、日本でいういわゆる亭主関白親父は、妻に「ケア労働」をさせることで、そして老後にはその妻を介護し自分が妻への完全な「支配者」となるということを紹介しています。

 

 う~ん。こうしてみると、性別分業というイデオロギーがいかに人の中に落とし込まれているのかが分かる。やはり、こういうイデオロギーが、「家庭」「学校」「教育」「メディア」「会社」「社会」等を通して何度も再生産されることでこんなにも人の中から離れないものになっているのだろうか。

 しかし、後半の方で触れた「支配」の構造は非常に興味深くて。これはむしろ、女性が男性を「支配」する力は何故存在しないのだろう?と思う。そこには、性別分業というイデオロギーというよりも、「社会が規定する男性性(男らしさ)」の方に原因があるのかしら。とか考えたり。

 

 なぜ国は介入しないのか

 次の題「なぜ国は介入しないのか」、現代のリベラリズム「公的世界を公平にすれば、私的世界も公平になるだろう」に対して、フェミニズム政治哲学者のスーザン.M.オーキンの主張「政府は公的領域には介入しているのに、私的領域には何故介入しないのか!(だからこそ、私的領域における不公平は維持されているのだ)」を紹介しています。

 

 オーキンの言いたいことは分かるけれど、私個人の意見としては私的領域に国家が介入するのは断固反対です。家庭の在り方、個人的な意見、生き方、それらは悪魔で個人が自由の下に選択していくものであって、其処に「国家」が介入すると必ずや国家のコントロールしやすい「一元化した考え・思想」が押し付けられるのは容易に想像出来ます。しかも、日本の場合ではそもそも公的領域における不公平性に対して何の対処も施されていないのです。一部の動きを例外として、以前として異性愛を中心とした教育・メディア・行政(戸籍制度等)等々。まず公的領域から変わって出直してこいや。という感じ。

 

 という訳で、これが第三章読んだ感想です。

 

Ed Sheeran「Perfect」を和訳する

Ed Sheeran「Perfect」は、2017年3月3日に発売されたAlbum「Divide」の5番目に収録された楽曲で。その曲の歌詞を勝手に和訳したいという衝動に駆られたので、以下好き勝手な口語的意訳を掲載。

 

【1】

I found a love for me
Darling just dive right in, and follow my lead
Well I found a girl, beautiful and sweet
I never knew you were the someone waiting for me

 僕は愛を見つけたんだ、僕にとってのね。

 だから、最愛の人。ただ僕の胸に飛び込んで、僕について来てくれ。

 えっと、そう。僕はとある女の子を見つけたんだ。綺麗で、可愛い女の子を。

 君みたいな女の子が僕を待っていてくれたなんて、僕は全く知らなかったよ。

【2】
Cause we were just kids when we fell in love
Not knowing what it was, I will not give you up this time
But darling just kiss me slow, your heart is all I own
And in your eyes you're holding mine

 僕らが恋に落ちた時、僕らはほんの子どもだったからさ。

 それが何なのかよく分からなかったけど、今回は君を誰にも渡しやしないさ。

 けどさ、僕の愛しい人。ただ、ゆっくりと僕にキスをしてくれないか。

 君の心は全部、僕のものだよ。

 そして、君の瞳は、僕を捕らえて離さない。

【3】

Baby, I'm dancing in the dark, with you between my arms
Barefoot on the grass, listening to our favorite song
When you said you looked a mess, I whispered underneath my breath
But you heard it, darling you look perfect tonight

 ねえ、君。僕はこの暗闇の中踊ってるんだ、この腕で君を抱き締めながら。

 芝生の上を裸足になって、僕らのお気に入りの曲を聴きながら。

 君が「酷いものでしょ」って言う時、僕はこっそりと君の耳にこう囁くんだ。

 君も聞こえているだろう、「ねえ僕の愛しい人。君は今夜完璧だよ」って。

【4】
Well I found a woman, stronger than anyone I know
She shares my dreams, I hope that someday I'll share her home
I found a love, to carry more than just my secrets
To carry love, to carry children of our own

 えっと、そうだね。僕はとある女性を見つけたんだ。僕の知る誰よりも強い女性を。

 彼女は僕の夢を分かち合って、僕はいつか彼女と一緒の家に住めれば良いなと思った。

 僕は愛を見つけたんだ。僕の秘密以上のもの見つけていこう。

 愛を育んで、僕らの子どもを育んで。

【5】
We are still kids, but we're so in love, fighting against all odds
I know  we'll be alright this time
Darling just hold my hand, be my girl, I'll be your man
I see my future in your eyes

 僕らはまだ子どもだけど、お互い深く愛し合っている。色んな困難に打ち勝ちながら。

 僕は知ってるよ、これでもう僕らは大丈夫だって。

 だから愛しい人。ただ僕の手を握って、僕だけの人になって欲しい。僕も君だけの人になろう。

 僕には見える、君の瞳の中に僕の未来が。

【6】

Baby, I'm dancing in the dark, with you between my arms,
Barefoot on the grass, listening to our favorite song.
When I saw you in that dress, looking so beautiful,
I don't deserve this, darling, you look perfect tonight.

 

 ねえ、君。僕はこの暗闇の中踊ってるんだ、この腕で君を抱き締めながら。
 芝生の上を裸足になって、僕らのお気に入りの曲を聴きながら。
 そのドレスを着た君を見た時、それはもう本当に綺麗でさ。
 君は「似合わないわ」なんて言うけれど、ねえ僕の愛しい人。

 「君は今夜完璧だよ」

【7】

Baby, I'm dancing in the dark with you between my arms,
Barefoot on the grass, listening to our favorite song.
I have faith in what I see.
Now I know I have met an angel in person,
And she looks perfect, I don't deserve this.
You look perfect tonight

 ねえ、君。僕はこの暗闇の中踊ってるんだ、この腕で君を抱き締めながら。
 芝生の上を裸足になって、僕らのお気に入りの曲を聴きながら。
 それで、僕は今自分が何を見ているのか確信したよ。

 僕は本物の天使と出会ったんだってこと。今僕にはようやく分かったよ。

 彼女は本当に完璧だよ。君は「相応しくない」なんて言うけれど、
 「君は今夜本当に完璧だよ」

 

 

 

 

 ちなみに、下線部を引っ張ったところは訳に困ったところ。

「I found a love, to carry more than just my secrets
To carry love, to carry children of our own」は特に困ったし、あんまり訳も綺麗じゃない。

 love とtoの間に,がある点で、このto以下はloveに修飾する形容詞句ではなさそう。

 となると、to以下は「結果や目的」といった訳かなあと。

 又、carryは「運ぶ」以外にもその動作の進行的イメージがあるところから、「成長」

 だったり「産む」といった意味合いもあるそうなので「育む」という訳を。けど、 

  carry more than just my secretsって何かなあ。僕の秘密以上に大事なものを育んでいこうってこと?他の洋楽和訳サイトを見たけれど、此処の和訳だけはもんのすごいバラバラ。ま、いっか。

 

 Ed Sheeranはこういった純朴な歌詞を書けるところに大きな魅力があると私は思うのです。