読書記録

読書の備忘録

チェーホフ「可愛い女・犬を連れた奥さん」

 

チェーホフ 作

神西清 訳

岩波文庫

「可愛い女・犬を連れた奥さん

 

ロシア文学の本を読みたいな、と思っていたのでとりあえずチェーホフから。

 

ロシア文学の本を読んだのは、

恐らくこれが初めてといっていいくらいだと思うのだけれど

結構面白く読めた。

 

読んだのは、「可愛い女」「犬を連れた奥さん」「イオ―ヌィチ」。

何か今まで読んだ本となにか違うかって言われるとなんだろう、

登場人物の性格とかが結構面白いなと思った。

 

例えば、イオ―ヌィチで出て来る主人公の男性は

でっぷり太ったなんか性格の悪そうな医者だし、

可愛い女に出て来る主人公の女性は、

自分の意見をまるでもたなくて結婚相手・交際相手が話すことを

そのまんま自分の意見として話して、いわゆる恋人とか夫がいないと生きていけない女性だった。

 

こういう登場人物の性格設定っていうのは、

かなり個性的だなと思った。

 

ちなみに、犬を連れた奥さんでは

ヤルタで会った婦人のことが忘れられなくて

モスクワに帰った後わざわざサンクトペテルブルグにまで会いに行っちゃうという。

いやそりゃ別れた浮気相手がいきなり劇場で声をかけてきたらびっくりするよなあ。

 

そうそう、

主人公だからといって非常に美化されているわけでもなく、

なんかすごく人間らしい、人間くさい感じの登場人物設定ってのがおもしろいなと思った。

 

 

 

 

なんとなく書く

 

なんだか7月もあっとういう間に過ぎようとしている

早いな~

 

毎日せまりくることをやって、疲れて、休んで、またせまりくることをやって、の繰り返しをしていたらいつもこんな感じで月日が経ってしまう

 

でも、遅々とした一歩が私の成長に繋がっていると信じよう

まあ、成長なんかしなくても良いと思うんだけど

 

交際しているパートナーが遠方から会いに来てくれた

前からオムライスを作って欲しい、と言われていたのでオムライスを夜ごはんにつくる

たまねぎをみじん切りにして、彼にそれを渡して「ほい、これ炒めて」と渡す。

冷蔵庫に使っていないバターがあったので、それを使うことに。

私が玉ねぎを切った包丁でそのバターを切ろうとしたら

「その包丁で切るの?包丁についたたまねぎで、バターが痛んじゃうよ」

と言われた

大体こういう時に彼が言うことは「正しい」のだが、私は特にそういうことを気にしないたちなので「え~わかったよ」と言って渋々別のナイフを取り出した。

そしたら彼は

「まあ(一緒に暮らしたら)俺が家事7割やるからいーけどね」

と言っていた。

 

玉ねぎを炒めて、ひき肉も彼に炒めてもらう。

そのあとご飯を冷蔵庫から出してそれも炒める。

そこから交代して、卵は私が焼いて、くるくると巻いてオムライスを作った。

 

このオムライス、めっちゃ美味しかった。

 

それで、

「作ってくれたから、後片付けは俺がやるから」

と言って食器を洗ってくれた。

私は最初「つかれたー」と言ってベッドにごろんとしていたけど、

料理を作る時彼も手伝ってくれたので私も後片付けの手伝いをする。

 

私の家庭の話をしよう。

私の家庭では、

父親は全く家事をしない。

幼い頃、私が食べ終えた食器を片付けようとしたら

父は一言、「それはお母さんがやることだから、お前はしなくていいんだ」

と言い放った。

私の家では、完全にサラリーマンの父と完全専業主婦の母の元に育った。

 

そして、そんな家事にも育児にも協力をしない父親を心底に嫌っていた。

 

まあだからなんだという話でもないが、

現在付き合っている彼のことは大事にしないとなと思ったのである。

 

のろけか?

のろけかもしれない。

 

私にとって、自分の育った家庭が嫌で嫌でしょうがなくて

ああいつかまともな家庭を築きたいなと思っている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんとなく書く

 

なんだか7月もあっとういう間に過ぎようとしている

早いな~

 

毎日せまりくることをやって、疲れて、休んで、またせまりくることをやって、の繰り返しをしていたらいつもこんな感じで月日が経ってしまう

 

でも、遅々とした一歩が私の成長に繋がっていると信じよう

まあ、成長なんかしなくても良いと思うんだけど

 

交際しているパートナーが遠方から会いに来てくれた

前からオムライスを作って欲しい、と言われていたのでオムライスを夜ごはんにつくる

たまねぎをみじん切りにして、彼にそれを渡して「ほい、これ炒めて」と渡す。

冷蔵庫に使っていないバターがあったので、それを使うことに。

私が玉ねぎを切った包丁でそのバターを切ろうとしたら

「その包丁で切るの?包丁についたたまねぎで、バターが痛んじゃうよ」

と言われた

大体こういう時に彼が言うことは「正しい」のだが、私は特にそういうことを気にしないたちなので「え~わかったよ」と言って渋々別のナイフを取り出した。

そしたら彼は

「まあ(一緒に暮らしたら)俺が家事7割やるからいーけどね」

と言っていた。

 

玉ねぎを炒めて、ひき肉も彼に炒めてもらう。

そのあとご飯を冷蔵庫から出してそれも炒める。

そこから交代して、卵は私が焼いて、くるくると巻いてオムライスを作った。

 

このオムライス、めっちゃ美味しかった。

 

それで、

「作ってくれたから、後片付けは俺がやるから」

と言って食器を洗ってくれた。

私は最初「つかれたー」と言ってベッドにごろんとしていたけど、

料理を作る時彼も手伝ってくれたので私も後片付けの手伝いをする。

 

私の家庭の話をしよう。

私の家庭では、

父親は全く家事をしない。

幼い頃、私が食べ終えた食器を片付けようとしたら

父は一言、「それはお母さんがやることだから、お前はしなくていいんだ」

と言い放った。

私の家では、完全にサラリーマンの父と完全専業主婦の母の元に育った。

 

そして、そんな家事にも育児にも協力をしない父親を心底に嫌っていた。

 

まあだからなんだという話でもないが、

現在付き合っている彼のことは大事にしないとなと思ったのである。

 

のろけか?

のろけかもしれない。

 

私にとって、自分の育った家庭が嫌で嫌でしょうがなくて

ああいつかまともな家庭を築きたいなと思っている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

牧野智和『自己啓発の時代 「自己」の文化社会学的探究』

勁草書房

2012年第1版第1刷発行

 

本の帯びに

「本当の私を知りたい」「自分を変えたい」「高めたい」…

 

といった言葉の羅列があって、面白そうで手にとった。

ちまちま読んでいたのだが、

あまり自分で完全にこの本の内容をきちんと理解出来たか少し不安なので

この本を読みながら考えたことをめも程度に書いていこうと思う。

 

本当の自分を知りたい、

といったときに個人的に思い浮かぶのが占いだ。

 

私は結構占いが好きである。

でも、占いって科学的に考えるとどういう立ち位置のものなのだろう。

占い=非科学的なもの、

という等式は割と簡単に想像が出来るが

意外に科学的根拠に基づいたものなのかなあ、占いって。

 

この著書を読んでいる時、

もし自分が本当の自分を知りたい、とか自分を変えたいと思った時どうするかを考えたら

多分インターネットの無料占い診断とか、「自分を変えたい」とかグーグル検索で打ち込んでそれで出てきた自己啓発関連のネット記事を読むだろうなと思った。

わざわざ自己啓発の本を買う、というお金を支払ってまで自己啓発を追求する人というのは、なんていうんだろう。どういう人なんだろうなあ~とか思ったりした。(やはり意識高くて、自分でお金を自由に使うことが出来る会社員とかなのだろうか)

 

そうそう、あとこの本を読んで思ったのが

コンサルタント」ってなんなんだろうねということだ。

コンサルタント、という職業はいつ頃から発生するようになったのだろうか。

 

最近はコンサルタント飽和が凄い様な気がしていて、

経営コンサルとかいうド王道のものもあれば、

なんか食べ物とかスポーツとか、すごく身近なものに関するコンサルタントもいる。

 

以前、コンサルティング会社にインターンをした際に、社内の人事の人がこう言っていたのを思い出す。

 

コンサルタントという職業には、資格がいりません。だから、割と誰でもコンサルタントを自称できちゃう」

 

あーそうなんだ、と思った。

だからこんなに最近なんだそのコンサル?みたいなコンサルタントがよくテレビに出ているのね、と思った。

 

私的には、コンサルタントこそが自己の内面のテクノロジー化によって生まれた職業なんじゃないかと思うんだけどな。どうだろう。

 

あと個人的に思ったのが、

雑誌研究って難しいなと思ったということ。

 

この本では、an・anとかプレジデントを使って分析をしているのだが、

それらの研究対象に接近する理由は分かるものの、

うーん、この雑誌の代表性ってどうなんだろう…とか思わないでも、ない。

 

あとそういえば、この本を手に取った間接的な要因となったのは

以前ニュージーランドから留学で帰ってきた時に、日本の本屋に自己啓発本がずらりと並んでいたのにびっくりしたからだ。

 

ニュージーランドの本屋ではまずこんな自己啓発本は無かった、ように思う。(今考えるとニュージーランドオークランドはなんか本屋がものすごく僅かしかなかったな)

 

でもこの本を見ると、アメリカとかの有名企業のCEOの本とかも言及されていて、

「あ、フーン。そうなんだ」とか思った。

 

もしかしたら、なんかこういう有名企業CEOの成功本とかって、結構国によってもそれくらい人気が出ているのか違うのかもな~とか思ったりした。

 

そんな感じです。

 

 

 

 

 

文系大学院生の就職活動について

 

なんか今日は筆が乗るので、そういえばこれも書いておこうかなというやつも書いておくことにする。

 

文系大学院生の就職活動は、なんだか世間一般的にとても困難がつきものと言われている、気がする。

 

確か私が院に進学する時も、「文系が大学院に進学しても就職活動の時に不利になる」と先輩か誰かに言われた気がする。

 

あとは、なんかどっかのブログでも文系の大学院生は就職活動において差別されるとか書いてあった気がする。

 

あれ、なんか「気がする」ばっかりで申し訳ない。

でも割とこれらは自分の肌感覚で周りの人から言われてきたことだった。

 

それでは、自分が文系大学院生として就職活動をやった結果、どうだったかというと

 

 「別に現状の就職活動において文系の大学院生という属性が理由で、就職活動の選考に落とされるということはない」

 

というのが率直な感想である。

でもこれには幾つかの説明書きが必要になると思う。

この記事にはその事についてざっくばらん書いていきたい。

 

第一に、大学院生とコンサルティングシンクタンク業界の親和性について。

 

私が所属するコースでは、コンサルティングシンクタンク業界に就職する先輩たちが多い。同期を見てもそうだ。

 

一般に、私の所属するコースでは、社会調査などを学ぶことからそのスキルがコンサルティングシンクタンク業界に直結するという言われ方をする。

これは私も否定しない。そうだと思う。

 

実際、私は某大手日系コンサルティング会社にインターンをしたことがあるが、そのインターン同期も会社の先輩も院卒が多かった。それは別にその会社が特別、という訳では無く、他社のコンサルティング会社でも文系院卒はかなり多いというのが実情だと思う。

 

すげーざっくばらんにいうと、大学院生は研究をする上での研究調査の手法が身についている、とか、その研究の専門性がコンサルティングでも生かせるとかいう点がシンクタンクコンサルティング業界の仕事ととても親和性が高いのだと思う。

 

そういえば、以前誰かから「シンクタンクコンサルティング業界は院生の方が有利だけど、他の業界に関しては院生は不利じゃないのかな。だってそれなら学部生時代に就職活動すればいいじゃんって話だし」という話をされた。

 

私も自分が就職活動をするまでは「そうかもなあ」と思っていた。

しかし、実際やってみると

 

別に文系大学院生でもシンクタンクコンサルティング業界以外の業界でも不利に働くことは無い

 

と感じた。

実際に、私はシンクタンクコンサルティング業界ではない全く違う業界の会社に就職するし、同じコースの同期を見ていてもシンクタンクコンサルティング業界からかけ離れた業界に就職する子がちらほらいる。

 

ただ、

 

ただね。

 

シンクタンクコンサルティング業界の方が、同期でも先輩に大学院生は多いから「文系院生」という属性で周りから浮くことはないと思う。

 

普通に考えて、文系大学院生というのは母数集団が極めて少ない。

 

就職活動の一環で死ぬほどアンケートとか企業から書かされたが、

自分の学歴を書く部分で 「大学」 という項目はあっても 「大学院」 という項目が無いアンケートも多々あった(「大学・大学院」という選択肢がある方が少数だった気がする)。

 

私が集団面接とか、グルディスの一環で自己紹介する時も「文系」の「大学院生」と出会うことって殆ど無かった。大半が学部生だった。

(ちなみにいうと、私はこの集団面接とグルディスの時に大学名を言って自己紹介をしなければならないパターンがとても嫌だった。ただでさえ、大学が大学なので周囲から「え?こいつやべえ」という反応に増して、大学院生であることを言うと「文系で大学院生?更にやべえ」という反応が返ってくる。これは本当に面倒くさかった。なので、面接官がいない時は以前在籍していた学部生の時の大学を言ったり、適当に「大学院では教育を専攻していて~」とか、或いは大学院名はあえて言わないようにしていた。)

 

だからまあ、シンクタンクコンサルティング業界の方がね、相対的に驚くほど院生が多い、というよりむしろ学部生がマイノリティレベルなので、「文系大学院生」という属性で浮くことはないと思う。

 

しかし思うに、その「属性」で「浮く」ということがあって居心地が悪い思いをするかっていうと、それは最初の方だけじゃないかなと個人的には思っている。多分働いたら学歴とかあんまり関係なくなるだろう。社会で働いたことは無いが、私は居酒屋のアルバイトで3年間近く働いていて、高校1年生とか専門学生の子とか学歴が全く異なる子とかと働いてきたが、働く上で「学歴」とか正直どうでも良いものとして扱われているのを感じる。結局、仕事が出来るかどうかが大事なのだから、別にそこに「学歴」なんかどうでも良いのだ。

 

第二に、院生の方が逆に研究を話すネタとして使える。

 

私は基本的に就職活動において、「アルバイト」と「修士研究」、それに付随して「海外留学」の経験を話していた。

 

私の場合、学部生の時にサークル活動に特に積極的に従事していた訳ではなかったので、学部3年生の時少しだけ就職活動をしていた時に「アルバイト以外に何を話そうかなあ」と悩んでいた。

 

結局、その後院進学を決めたのだが、院生として就職活動をすることになり「修士研究」を話すネタにすることに決めた。

 

これは割と良い決断だったと思う。

 

修士研究は、割と多くの人がそうだと思うが多くの時間と労力をかけて費やすものである。なので、修士研究関連の話で深堀りをされたとしても、それだけの多くの時間と労力をかけてやってきているから、しつこい深堀りに関しても(個人的には)困ることは殆ど無かった。

 

これで逆に、とてもじゃないがすごい頑張ってたとはいえないサークル活動に関して盛って盛って盛って話すよりは断然にこちらの方が良かったと思う。

 

幸いにして、私の修士研究は割と珍しいテーマだったので、よく人事の人に興味深そうに聞いてもらうことが多々あった。

 

まあ、なので「文系大学院生」という「属性」が就職活動が不利になるということは、私の経験上無かった。

 

だが、しかし。

 

現文系学部生が修士課程に進学して、なおかつ「民間企業」に就職をしたい!と考えているのであれば、私個人的にめちゃくちゃ「これだけはやっておけ!!!!!」というものがある。それは、

 

学部3・4年生の時に、企業訪問と研究やっとけ!

 

だ。

 

何故なら、修士課程の2年の学生はまじで、圧倒的に時間が足りねえからだ。

 

正直これは修士学生が何の調査方法によって研究するかにもよるとは思うのだ。

例えば、歴史研究や統計分析などを用いて修士研究のテーマにするのであれば、もしかしたら恐らく修士2年の4カ月あまりを研究の空白期間にしても問題ないのかもしれない。

 

しかし、私の様な、人を探してインタビューをしたり、特定の場所に入って長期間エスノグラフィーをやる人間、まあつまりいうところの質的研究法によって修士研究を行う学生は就職活動の為に4カ月あまり研究をしないとなると、超焦る。

 

え、これ研究大丈夫カナー

 

とか。

え、これで修士論文とか書けるのカナー

 

とかね。

あと普通に、文系で大学院進学しているということは、それは多分恐らくだが勉強することが割合好きでそういうことに長時間費やしても厭わない学生だろう。そこで、4カ月あまりを就職活動の為に無に帰すと、

 

研究する為に大学院進学したのに、何もこの4カ月何も出来てないじゃん。院進した意味??????????

 

という状態になる。

しかも就職活動を踏まえた文系大学院生は基本的に、修士課程1年でほぼ全ての卒業単位をとろうとする為に、なんかあんまり研究に時間を費やしている感がない(いや、これは私だけかもしれないが)。

 

だからこそ余計に、修士課程2年になり就職活動に入ると、「あれ私の修士研究大丈夫…?」状態になるのだ。

 

しかし、かといって新卒の就職活動を疎かにすることを私はオススメしない。

確かに世間は転職市場が成熟してきて、「会社に合わなければ辞める」時代にこそなっているものの、新卒就職活動の圧倒的なメリットは

 

学生だからこそ、様々な業界の会社が見れる

 

ということである。このことは、就活を通して出会った多くの企業の社員と、既に就職した友人達が口を揃えていうことだ。

 

新卒就職活動ではなく、転職活動をちょっと想像して欲しい。

 

まず、転職活動というのは難しい(らしい。聞いた話であるが)。

何が難しいかというと、働きながら転職活動をすることが、だ。

もし東京勤務であれば、まだましだが

それが地方勤務であった場合、企業の説明会は大体東京とか大阪で行われる訳だから毎回そこまで飛ばなければならないことになる。

また、第二新卒扱いで転職をする気であれば、

説明会は基本的に平日で行われるので現在勤めている会社を有給とって休むかなにかをしなければならない。

そして何より、平日9時ー5時で働きながら、その後、もしくは貴重な土日休みの時に転職活動の準備をするのはどう考えても労力のかかる行為である。

じゃあ現在の仕事を辞めればいいじゃないかという話にもなるが、

まあそれでもいいとは思うのだが転職活動が上手くいくという保証もない中で現在の仕事を辞めるというのは中々リスキーな行為であるといえるだろう。

 

要するに、

新卒就職活動で時間がある時に企業訪問・研究をしておけば

「世の中にどんな企業があるのか」ということを転職活動の時に改めて学ぶ必要は無くなるということだ。(しかも社会人になったら、そう簡単に他社訪問というのは出来なくなる。)

 

あ、それでね(話がずれた)。

新卒就職活動の時にちゃんと企業訪問・研究をしておけという話だが、

それで、文系大学院生が修士課程2年の3月から馬鹿正直に0からやり始めるにはもうあまりにも時間と余裕が無さ過ぎる。ということなのだ。

 

なので、そう考えると相対的に時間と余裕のある学部3・4年生の時にちゃんと企業訪問と研究をやることを私はオススメする。

どうせその時、大半の友だちも就職活動をやっているだろうから、それに合わせて企業訪問とかOBOG訪問とかやっちゃえばよいのだ。

それで「あ~この業界興味あるな~」とか「この業界やっぱ興味ないな~」っていうのを漠然とでいいからわかるようになっておくとよいと思う。

その業界のある会社が気になるのであれば、その時点でその会社を受けても良い訳だし。(別に大学院の修士課程は、今進学しなくても社会人になってから入りなおすことも出来るし)

 

そうすると、修士2年になった時に、受けたい業界・企業も明確になって少しは就活が楽になるんじゃないかなあと思う。(幸いなことに、私も学部生の時に企業研究をちょっとやっていたので、「この会社は興味無かったな~」っていうところは院生の時も説明会を省略させたりすることが出来た)

 

あともう1つやっておいた方が良いなと思うのは、インターン

 

これは別に学部生の時でも良いし、修士課程1年の時でも良い。

これはね、やっておいた方が良いと思う。

その中でも、2週間とかの割と長期間インターンで、実際の仕事に近いことをやらせてもらえるやつが良いと思う。

 

で、何故これが良いのかというと、

その企業とかその仕事に自分が向いているのか向いてないのかが分かるから。だ。

 

私の体験談だと、私は日系大手コンサルティング会社に割と実務を体験するインターンをした。これは本当に良かった。お金もくれたし。

あと何より良かったのは、

「私、コンサルティング会社向いてないな」

 

ってことがハッキリと分かったからだ。

どういう所が向いてないと感じたのかは割愛するとして、これが分かったのはとても大きかった。それまでは、先輩達の多くがコンサルティング会社に行くので自分もまあそっちかなと適当に思っていた。

しかし、コンサルティング会社が向いてないなということが分かったあと、「もの作りをやっている会社」への興味とか「意思決定のサポートじゃなくて、実際に意思決定をする場に関わりたい」という自分の思いとかに気づいて自分なりの就職活動の軸を作り直すことが出来たからだ。

 

なので、インターンはオススメ。

 

あと、ちなみにインターンを受けたことで、早期インターン選考などもある為、志望度が高い会社のインターンは行ってみる価値があると思う。

しかし、インターンをやったからといって、選考に有利になるわけではない。実際に、私はインターンをした会社を本選考で落とされたし。

一方で、インターンからかなり多くの人数の学生を先に囲って採用する企業もある。

なので、まあ結論から言うと、インターンをやることで本選考に有利になる場合とならない場合があるが、どちらにせよ得るものは大きいのでやっておいた方が良いで。

 

ということ。

 

ここからは、文系大学院生の就職活動についてちょっと総括というか、感想?みたいなものを言っておきたい。

 

就職活動において、文系大学院生は、文系大学院生という「属性」というよりかは、文系で大学院進学をする人達の「性格」によって選考を落とされてたのかもしれないなと思った。

 

私もだとは思うのだが、一般的に(こんなざっくりした言い方で申し訳ないが)大学院生は理屈っぽい。し、まあ多くの人が学部生の時に就職をする中で、大学院に進むわけだから、「ちょっと変わってるのかな~」とか「周りと協調性とれんのかなあ」みたいな点で企業の採用側としても「こいつ採用しても会社で上手くやっていけんのかな?」的なことをね、考えて文系院生を落としたりすんのかな、と思う(これは悪魔で私の想像なので、確固たる根拠はないことを先に行っておく)。

 

なので、厳密にいえば選考で落とされているのは、文系大学院生という「属性」ではなく、その文系大学院生になることを「わざわざ」選んだその人自身の「性格」なのではないかと考える。

 

その為、私自身も何回も就職活動の中で尋ねられたが「何故周囲が就職する中で、大学院に進学したのか」を論理的に且つポジティブに伝えることが出来れば良いのだと思う。(ちなみに、私は正直に「もう少し勉強がしたかったから」と答えていた)

 

あと、恐らくなのだが。

もし文系大学院生という「属性」によって、企業の選考で落ちるということが過去の出来事として事実だったとしよう(いや、多分事実だったのだ。)。

 

しかし、恐らくその様な時代はもう終わっている。

何故かというと、現在日本の企業は少子化によって圧倒的に人員が不足しているからだ。

 

圧倒的人員不足な現状において、恐らくだが「文系大学院生だから落とす」ということは言ってられなくなったのだろう。

 

それくらい、現在文系大学院生の就職活動の状況は属性判断されることはほぼなくなったと言っても良いと思う。

 

ただ。(ただただばかり言って申し訳ない)

 

正直、2020年以降の就職活動に関してはどうとも言えないなあと思うのが正直なところだ。

 

オリンピックが終わると、必ず経済は停滞する。

その時に、被害を受けるのは新卒の就活生だ。

その際、文系大学院生という「属性」が再び不利に働くかもしれないということは…まあでもなんともいえないなということである。

 

まあそんな感じです。ざっくばらん。

でもさあ、そんなこと言えるのは、お前が東大の大学院だからじゃね?という反論が来るかもしれない。

でも、東大の文系大学院生といったって、私14社中12社落ちましたけど。

 

あと、もし今でも文系大学院生は「ちょっと…」という会社があったのだとしたら、

その企業は多分遅かれ早かれ潰れると思うので行かない方が良いのではと個人的に思う。

そんな属性判断するような会社に入っても多分楽しくないと思うのだ。うむ。

 

なので、自分が文系大学院生であるという「属性」に不安を抱かず、

民間企業に行きたければ不安がらずに民間企業を受けて欲しいということでした。

 

 

 

 

 

最近考えたことをつらつら

【まず1つ目】

(私の就職活動の終わり)

 最近ようやく就職活動が終わり、研究活動にシフトしようとしている今日この頃。

就職活動は辛くもあり、というか辛さしかなかったが、第三志望だったものの第一志望業界のところに内々定を貰った為に「よし、まあここで良いだろう」という感じで終了した。終わるとあっけないもんだなーとも思ったりした。まあ、受け入ていた企業からどんどんとサイレント反応で、最後の最後には持ち駒がもう3つ位しかないという状況だったため、自分の意志で決めたというよりも「もうそこの企業にせざるをえなかった」という方が強かったためだろう。

 しかし、その企業から内々定を貰い(何度も内々定メールを確認した)自分でも色々考えたが、やはりこの企業が現時点では私にとってベストであろうという判断を下して、就職活動を終えた(ここに関しては、私の両親とかなりの対立があったのだが、そこに関しては今回は割愛したい。6月26日時点では、ラインによる母親の説得を行った結果、割と母親に関しては関係回復している)。というのも、当初自分が「ここだけは譲れねえ!」と決めていた就職活動の軸並びに、「こういう労働環境下で働きてえ!」という自分なりの基準にその企業が全て当てはまっているからだ。また、学部3年生の頃からちょっとずつ見てきた企業数はざっと70社。その中でも、現時点の自分が行きたいな~と思っていた第一志望業界の企業から内々定を貰えたという点で、まあ完璧でこそはないが、「悪くはない、いやむしろ上々」の結果だと考えている。

 

(就職活動をした社会学専攻の院生が考えたこと)

 別に大してことではないのだが、多くの企業の人事や働いている人と説明会や対談で話すと、割と多くの人が

 

「まあね、とりあえず入社しちゃって。こんなのをいうのもあれなんだけど、合わなかったら辞めればいいから(笑)」

 

と言っていた。この言葉一つをとっても、現在の日本社会において1つの会社にずっといることが当たり前ではなくなっているという状況が如実に分かるなあと感じた。こんなこと、多分バブル時代とか、一昔まえの就職活動では聞かなかったんじゃないかな。「1つの会社に40年間いるわけだから、会社選びは慎重にね!」とか言われたのではないか。

 

 次に、まあこれはよく言われると思うのだが、

 

「新卒就活は最終的に『ご縁』だから」。

 

 これは受けている企業の若手人事にも言われた言葉だ。ちょっと納得しそうになる自分がいるけど、敢えてツッコミたい。

 

「いやいや、縁(えん)ってなんだよ(笑)」

そんな良く分かんねえ曖昧なものに一番最初の職業を決めさせられてたまるかー!

てか、そんな「縁」とかって、外国の人とかにはなんて説明すんだよ。

 

 意外に、この「よく分かんねえ曖昧なもの」っていうのがかなり此処ではミソで、恐らくこの「縁=よく分かんねえ曖昧なもの」は、如実に新卒就職活動の採用基準の不明確さを表しているように感じてならない。

 

新卒就職活動の採用基準は、我々学生側には不明確だ。

 

幾ら面接対策をし、履歴書をちゃんと書いたとしても、落ちる時は落ちる。その時は、「その会社に自分は合わなかったんだ」と思ってその会社のことは諦める(実際、自分の所属大学のキャリアサポートの人にも、落ちたら「その会社に自分は合わなかったんだ」と思いなさいと言われた。)

 

でもさあ、それでも分からないよネ。

 

選考に落ちたとしても、何故落ちたのかの理由は明らかにされない。

いやでも、学生側からしたら何故落ちたかが明確であれば次の対策にも繋がるようなものだ(うちの会社のこと貴方の此処が合うか分からなかった。みたいなことを言われれば、「あーじゃあ自分はこの業界向いてないのかもな~」とか思って、早目に就職活動の動きも帰ることが出来るだろうに)

 

「縁」

 

そんな外面の良い言葉で、新卒就職活動の採用基準の不明確さを巧妙に隠しているつもりでいるのか。ぷんぷん。

 

【もう1つめ】

(謙虚さ)

 最近、コースで教育関連の有名な人が学校に来てくれたので、その人の話を聞きに行った(誰のことからは、同じコースの人には分かるだろう)。

 その人の話を聞いて、まず第一に私が持った印象は

 

「割とリベラルな考え方の人だな」

 

だった。様々な観点から右傾化していく現在の日本の教育を批判していた。私は、ふ~ん、あんな組織の中にもこういう、ちゃんとした人がいたんだな、と思った。

 しかし、次第にその人の話を聞いて、次に私が抱いた印象は

 

「なんか随分と不遜な言葉の使い方をする人だな」

 

だった。自分の考え方と組織の考え方が衝突した際、何故貴方はその仕事を続けられたのかというような質問を学生が尋ねた時に、「とりあえず、自分より馬鹿な人がこの仕事をやるよりは自分がやる方がましだと思って」と言っていたり、またある特定思想を持った人達のことを「あの人達は頭が悪いですよ」と言っていた。

その時、自分の中に妙な違和を感じた。

 

そんな時、今日以下の様なツイートを自分のTwitterのタイムラインで見たので引用させてもらう。

 

 

「ぼくでなければいけないから」ではなく、「誰でもいいけどぼくがやらせてもらってる」

 

もうこの言葉だ!としか言いようの無かった。

どんなに、その仕事に就くことが難しく、やっていること自体が難しくてもこの様な態度を忘れてはいけないんじゃないかなあと個人的には思った。

 

また、これは私自身の修士研究にも言えることで、

これは私でなければいけないから、というより本当に「私がやらせてもらっているのだ」。このやらせてもらっている、という態度は当事者と関わる上で絶対に忘れてはならないことではないかと思っている。

 

先ほどの話に戻る。「あの人達は頭悪いですよ」という言葉にどれだけの差別的表現が含まれているだろうか。

 

そりゃ、東京大学を学部から入学した貴方にとったら、日本社会の大半の人達が愚かに見えるだろう。

しかし、そういった無意識に内面化しているエリート思想、もっといえば選民思想、差別思想が、私には現代日本の現在の社会の分断の元に思えてならない。

 

その発言を聞いた時、私はクラス中を見回した。

此処には、東京大学の学部生や東京大学の大学院生、東京大学の教授などが肩を並べている。

 

私も含め、此処にいる全員が、社会を研究する上では「外れ値」扱いをされる(つまり、日本社会の全体像からは少し外れた位置に存在している)ことについて、もう少し意識的にならなければならないんだよなあ、と思ったのでした。

 

【もう1つ】

(言語と、)

 

英語が出来る、だけじゃ意味が無いんだよなあと最近常々実感している。

私はこのことについて恥ずかしいことだが、最近まで誤解をしていた。

英語が出来るってのはかなりのアドバンテージなんだと自分では思っていた。

いや、確かに英語が出来ることで、英語の論文や本も読めるし、簡単な日常会話だったら英語を話す人とコミュニケーションがとれるし。それらは間違いなくアドバンテージだ。

けど、最近思うのは、英語という言語は結局「器」なのだということ。

その器に何か乗せるものが無いと、結局器だけ持っていてもそれはただの「空の器」なのだ。

乗せるものは何でもよい、

自分の専攻している学問、自分の好きなスポーツ・楽器、自分の好きな趣味、自分のしている仕事内容…などなど。

 

私は今まで、器を手に入れることばかりに躍起になっていた。

その結果、そこに乗せるものに頓着しないようになっていたのだ。

今更になって、この様だ。情けない。いや、社会人になる前に気づけて良かったな。

 

ところで、私はものすごく飽きっぽい。

とにかく飽きっぽい。

飽きっぽい上に、集中力がない。

 

だからこそ、これまで習い事なども途中で投げ出してばかりで

全く身につかなかった。これは良くなかったなーとか思っている。

 

新しいことにチャレンジするのは好きだ。

しかし、新しいことの一番最初の「甘くておいしい部分」だけを齧って、あとはポイッと捨ててしまう。

 

なんでだろうなあ。

恋人やパートナーに関してだと、私は1人の人に対してかなり「ジックリ」タイプなのに、何故趣味とか学問に関しては「次から次へと新しいものを」タイプなのだろう。

 

一貫してくれよ、そこは。

まあ、恋人やパートナーに関しては「何故変えないのか?」と聞かれたら

「新しい人に手を出して、現状のパートナーとの関係性まで構築していくのが面倒くさい」のと「新しい人に別に手を出す必要のないほど、現状のパートナーに満足している」という2つが挙げられるだろう(後半惚気てしまった)。

 

そうだ、私はめんどくさがりでもあるんだなあ。

でも、新しい学問とか趣味に手を出すのはめんどくさいとは思わない。

 

新しいものに手を出す必要のないほど、現状に満足しているに関しては

あーうんまあそうね、パートナーに関してはそうねって感じだ。

思えば、今の交際相手と付き合って4年位経つが今振り返ってみると、交際する上で相手と違ってめんどくさくなるポイントがあまり発生しない相手だったなと思う。

 

そのめんどくさくなるポイントはまず第一に、連絡頻度。

相手と自分の連絡頻度が少しでも食い違うと、これまたメンドクサイのだ。

食い違った時の妥協点を探り、お互いが合わせなければならなくなるのも結構な苦労だ。

 

あとは、関連して遠距離・近距離問わずデートの理想的頻度とかね。

これも食い違うと悲惨だ。

 

ここら辺に関して、現状の交際相手と衝突することはほぼなかった。

どちらも多分めんどくさがりで、別に毎日連絡しなくてもいーしみたいなタイプだった。まあデートに関してもそうだった様な気もする。いや、多分考えてみると向こうが割合私の要求することに柔軟に対応していたからかもしれんナ。

でも割と性格が似たもの同士で、お互いにお互いのことを過干渉することが嫌いなタイプだからこそ馬が合ったのかもしれない(しかし、向こうが潔癖症の気があって私が死ぬほどズボラなところには毎度世界大戦並の火種を感じざるをえない)。

 

以前、仲の良い友人の1人に、「一番最初の交際相手で、そんなにタイプが合う人と付き合えるのは奇跡的」と言われたことがある。

そうかもしれない。

 

だって、そもそも最初に今の交際相手と物理的に出会った時、この人は私とウマが合いそうだな~みたいななんてこれっぽちも思っちゃいなかった。

 

ただ単に、頭良さそう、肌白い、真面目そう、顔好みダナーで好きになったし。

あんまそこらへん戦略的に考えてなかったナ。

 

だからこそ、友達の「新たな良い相手を見つけるにはどうしたら」とか上記に記した「メンドクサイポイントが食い違った、どう対応しよう」かという悩みにイマイチ十分話される相手やくとして役不足となってしまう感があるんだろうな~とか思う。

 

話がずれた。

 

そんな馬の合う人を見つけられたのに、学問や趣味に至っては「これだーーー!」というものと出会っていない。いや、出会ったのかもしれないが、なんかしらの形で水を与えず、子葉しか出ていない状態だ。

今後はというか、この20代は、自分のライフワークとなるものを見つけること。

新たな挑戦をしても良いが、自分の得意なものを自覚してそれに努めて伸ばしていこうと思う。

 

【最後に】

(もう研究しないの?)

 

博士課程に進むことは、大学院に進学する時から考えてはいなかった。

でも、就職活動の時もやっぱり博士進学は考えなかった。

それには幾つか理由がある。

 

1つは、家にまじで金がないこと。

無い訳じゃあないんだが、私が一人っ子アンド両親が無趣味で子どもにしか金使わないみたいな状況で私が割と自由に家のお金を使っているという状況なのだ。

この状況がいつまでも続くわけじゃないってことは自分でも分かっている。

しかも実際、父が定年退職して、元々安い給料が更に安くなり、しかも父は癌に罹患して治療費も出さなきゃいけない。

そんなことを考えたら、とりあえず私には経済的自立が何より優先事項だった。

 

1つは、研究というより勉強が好きなこと。

研究って、多分学問の新たな知を発見していくことだと思うのだが(すごくざっくばらんに言うとだが)、私はそれよりかは既存の自分の知らない知を学ぶのが好きなんだなーと大学院に進学して再確認した。これは割と大きい。

 

1つは、まあとりあえず社会で働きたいなと思ったこと。

働いてお金がもらえる。

それはそれで面白そうだなーと思った。

博士進学した後で、通常の民間企業に就職するのは文系じゃまず難しい。

社会人経験を積みたいなら、まあ今出るしかないだろうっていうこと。

 

あともう1つは。

自分が今当事者研究に関わっている中で、「研究ってこんなに難しいんだ」と強く感じたことだ。これは、私が当事者・マイノリティ研究に関わっているということが強く理由に挙げられるかもしれない。

 

有名な社会学者の岸政彦先生も多分どこかで言っていたと思うのだが、

当事者の生活に入っていく研究者のする行為はある意味で当事者にとって暴力行為なのだということ。

 

何より、私はその当事者の当事者たる部分に数カ月、数週間、または1日の数時間しか関わらないが、

その当事者の人たちにとって、当事者たる部分は私の様にある恣意的な時間のみに関わるものではない。一日中、24時間、その一生関わっていくものなのだ。

 

その非対称性に、

正直私はどう向き合えば良いのか分からなかった。いや、今でも分からない。

 

私は、自由にスイッチングが出来る。

研究者として、当事者研究に関わる時と。

仲のいい友人と遊ぶ時と。

その2つが交わることは殆どない。

 

しかし、当事者にとって、その様なスイッチングは無い。

ある時も、どの瞬間も、その当事者が当事者たる部分と付き合いながら生きている。

(当事者という言い方はここでは申し訳ないが、便宜上用いている)

 

岸政彦先生は、どこかで博士論文を書き終えた後、数年間何も書くことが出来なかったといっていた。

 

私はすごく共感する。いや、修士論文も書いてないお前に何がわかるという感じだが、

それだけ「他者が他者を描写する」という行為は難しいものなのだ。

 

私も同様に他者を描写する。

 

しかし、私が他者を描写する時、

私の狭隘な脳の理解力で他者を理解しようとし

私の貧困な語彙力で他者を表現しようとする時、

他者の大事な何かを損なわせているのではないかと思わざるを得ない。

 

研究という行為の暴力性。

 

私は正直、それに向き合いながらこれからも研究をしていくのは難しいと思った。

 

 

なので、今回は博士進学は見送ったわけだけれど、

別に将来博士進学する可能性はある。

 

まあなんとなくそう思うだけなのだけど、そんな予感がするのだ。

結局私は学問は好きだから、また思い直して大学院に入りなおすかもしれない。

それはそれで良いと思う。

 

その時までに、自分の人生のライフワーク的なものを見つけられればなと思う。

これをやるために自分は生まれてきたんだ!位のものを。

 

 

 

 

 

神谷悠介「ゲイカップルのワークライフバランス 男性同性愛者のパートナー関係・親密性・生活」

「ゲイカップルのワークライフバランス 男性同性愛者のパートナー関係・親密性・生活」

神谷悠

新曜社 2017年

 

 明けまして御目出とう御座います。今年も宜しくお願い致します。

 今年はもう少しこのブログを読書録として使っていきたいなあと思いまする。

 

 この本を見つけたのは、昨年の社会学大会の目録の後ろの方の広告を見たからでした。割とLGBTのことに関しても興味関心があり、「へえこんな本が出るんだな、面白そうだなあ」と思って先日ようやく出版されたのでアマゾンでポチリしました。

 以下、私の気になったとことか思ったことをぽちぽちと。あまり、読まれることを想定して書いてないので読みづらいかも。まあ、コメントとして。

 

p.32
ミシェル・フーコーは近代社会において同性愛者のアイデンティティが構築されるメカニズムを、医療化や近代国家による人口への関心に焦点を当てて解明した(Foucault 1976=1986)
ジョン・デミリオは家族を基盤とした家内経済から資本主義の自由労働システムの移行によって、異性愛家族の外部で同性への性愛的/情緒的関心に基づく個人生活が可能になったとしている(D’Emilio 1983=1997)

 このフーコーの方の、構築されるメカニズムと、医療化や近代国家といったマクロな視点がどう結びついたのだろう。研究をしている中で?
 このデミリオの研究も、同性での個人生活が可能になった要因も家内経済から資本主義の自由労働システムといったマクロな視点に結びつけることが出来たのだろう。

 勿論実際このフーコーとデミリオの論文を読まなければいけないとは思うのだけれど、自分が最近質的調査方法を学んでいく中でこの自分の研究は随分と「時」と「場所」と「対象」をとても制限した中で行われることだと思う様になった。まあだからといって研究の意義が無いとは思わないのだが、自分の研究がこの様なマクロなものに接続するにはどうすれば良いのだろうと思った。

p.50
調査票を用いてあらかじめ想定した変数のみで調査する方法では、想定されない変数による影響を分析することが不可能なため。

 量的調査法で用いられる変数生成のために役立つ質的調査。

 質的調査の利点というのは、幾つかあると思うのだが、やはり量的調査に用いられる変数を新たに発見することが出来るというのは質的調査法の良点の1つだと思った。

 やはり、質的調査を用いるのであれば、質的調査の利点をとことんまで生かすことが必要なのだろうなと思った。

 

p.79

ゲイカップルは家事を外部化しているかーにおいて、どの様な条件下において家事の外部化が進行するのか、しないのかに焦点をあてている。

 質問項目がなんだか、既存の従属変数に依存している気がする。質的調査法の利点というのは、既存の従属変数だけでなく新たな従属変数の存在を発見することではないのか。そもそも、欧米と日本では家事サービス化の進行程度に関しては大きな差異があるだろう。しかも、日本の方が同性愛者に対する偏見が相対的に強いのは明白だし、そんな状況下で他人をパートナーと共に居住する空間に入れることは容易なことではないだろう。
 それよりも、お金を何に使うかという所に質問を割けば良いのでは…?

p.100

 専業主婦になることを理想としている男性が出てきたが、何故彼がその様な理想を内面化する様になったのかが個人的には気になった。

p.106

仕事と愛情表現

 もっと質問項目も、知りたいこととダイレクトにつなげていくべきなのでは?と思った。例えば、「パートナーが沢山家事をしてくれると、大切にされていると思うか?」といった風に。掲載されている質問項目だけでは、「それは愛情表現というのか…?」と疑問だった。

 更に全体を通してだが、今のパートナーとだけでなく、過去に同居したパートナーとの家事分担の要因も聞けば良かったのではないか。その方が、家事分担の要因を更に見れる気がする。

 

 本著は、日本でも珍しくゲイカップルを対象とした、彼らのパートナー関係・親密性・生活を明らかにしたLGBT関連の研究ではかなり先駆的な研究になるのではないかと思う(あまり研究としてのLGBTの動向に関しては詳しくないのだが)。多分彼らの生活にアクセスするのも中々難しかったのではないかとも個人的に推察する。そんな中で子の様な研究が出来たのは素直に凄いなあと思った。更に、調査実施日や日時、依頼方法なども事細かに記していて、「あ~こんな感じなんだ」と質的研究手法をやっている1人として参考になる部分も多々あった。又、LGBT関連の周辺領域の研究紹介も具に記されていて、「なるほど、こんな感じで研究を網羅してんのか」と参考になった。

 

 ただ一方で、なんだか周辺領域の課題がぼかぼか出てきて、何だか結局どこを明らかにしてどこを明らかにしていないのか途中でよく分からなくなった。(いや、私の読解力にも問題あるとおもうのだけれど)それと、半構造化インタビューの中身を見たが、質的調査方法の利点である「語りの厚み」みたいなものがどこか薄っぺらく感じてしまった(いや、本当にすみません。私自身にも言えることなのだが)。恐らく研究の中身がかなりセンシティブなものであるからこそ、「削らなければならない部分」が多々あったのだろうと思う。しかし、それにしても質的調査法の良さを生かしきっているとはあまり思えなかった。というのも、他研究で用いられている従属変数を用いてインタビューを行っているからではないかと思う。勿論、この研究の第一義は「あまりよく知られていない日本のゲイカップルの生活の様相」を明らかにすることだと思うので、欧米の研究で用いられている従属変数を用いてそれを明らかにするだけでも研究の意義はあると思う。しかし、それだけでなく、この研究ならではの従属変数生成のカケラみたいなものを発見し、それをとっかかりに研究を進めていけばもっと面白くなったのでは?と考えもした。

 

とりあえず、こんな感じで感想終わり。