読書記録

読書の備忘録

湯浅誠ら「若者と貧困 いま、ここからの希望を」

「若者と貧困 いま、ここからの希望を」

編著 湯浅誠 上間陽子 冨樫匡孝 仁平典宏

明石書店

2009年 初版発行

 

大学院前期の授業を振り返っていたら、いくつかの授業の資料にこの本が紹介されていたのでこの夏休みに読んでみようと思い、手に取ったのがこの本だった。

奇しくも(?)先日受けた授業と内容が合致している。

 

全体的な感想として、陳腐な言葉になるかもしれないが、私の目には中々映らない(映そうとしなかったのかもしれない)形で若者の貧困はこんなにも深刻になっているのだと感じた。

そういえば最近、母とニュースの話をしていて話がどんどん苛烈になっていった中で、母に言われた言葉を思い出す。「何故あんたは“下”の人のことをそこまで深刻に考える必要なんてないでしょ」といった言葉である。

一応前後には文脈があったわけで、文脈無しにこの言葉だけを抜き取るとあらぬ誤解が生まれるかもしれない。

この母の言葉には、彼女のある考えが内在している。

それをより具体的に言ってみると、いわゆる大企業に入れること、お金持ちになること、偏差値の高い大学に入ること、(そしてさらに彼女の考えの中では)そんな上記三つを満たした“良い”男を見つけるはこの世の中で“上”に属し、なおかつこれらは本人が“頑張ったから”手にした結果だというのだ。

言い換えれば、上記四つの反対は(例えば、中小企業に入る、貧乏、偏差値が低い大学に入る、いわゆる“ろくでもない”男と結婚するなど)、本人の努力を怠った結果であると結論付けることが多いのである。(しかし、改めてこう文字起こししてみると、とことん考え方だけはどこの時代の考え方だよ…と吃驚してしまう。母は一部、非常に化石のような考え方を持っているのだ)

 

さて、ここからがこの本の内容とつながる(はず)なのだが、

この日本社会は「本人の努力だけ」ではどうにも出来ないことがいくつも存在している。

この本の中で、派遣スパイラルに陥った男性のこんな言葉が載っている。

「自分なりに、がんばってきたつもりなんですけどね。もっとがんばらなきゃいけなかったのかな」(p.75)

そして、続いてその彼をリポートする著者の言葉がこうある。

「私自身も、取材開始当初当時はそう感じていなかったと言えば嘘になる。しかし彼のような若者たちのたどってきた人生をさかのぼると、自己責任とは言いがたい状況があるのではないか。」(p.76)

 

この本で、全体的に感じたのが、日本社会は性別ごとに非常に硬直的なライフコース(男:大学進学卒業→就業→定年 女:学校進学卒業→就業→結婚離職→専業主婦家事介護)が設定されていて、其処から外れたものは「異端」として排除される構造になっているということだ。

高校を中退したら、非正規雇用になったら、病気で会社を退職したら、夫と離婚したら…

 例を挙げるときりがないが、そんな人生にいつ起こるか分からないハプニングに巻き込まれたとき、コースを外れて崖下まで転落していく。

 そうではなくて、高校を中退しても、非正規雇用になっても、夫と離婚をしても、人間それぞれに最低限度の、そして少しでもゆとりのある生活を保障するべきだろう。

 この本で、佐々木隆治は湯浅誠の貧困の定義を紹介している(p.158)。

「貧困とは、単にお金がない状態ではなく、人間関係や金銭的ゆとりや精神的ゆとりといった「溜め」を欠いた状態である」

 貧困を脱却するために必要なのは、お金だけでなく人間関係の構築(具体的に、居場所とか)精神的なゆとりだということが、この湯浅の定義からいえるだろう。

しかし、単一的なライフコースの押し付けではなく、多様なライフコースを尊重しながら何重ものセーフティネットを張っていくのは、今後の日本社会で可能なのだろうか。少子高齢化のせいで、今後政府の税収は格段に減っていくはずである。

 そんな苦しい財政の中で、今後どうやっていけばよいのか考えるのが目下の課題だろう。

 

 

 

 

 

 

日本の貧困・格差について

 自分が学んだことや考えたことをアウトプット出来る場所が欲しいな、と考えた結果試験的に此処に記事を投稿してみる。

 今回は最近受講した授業が非常に興味深かったので、詳しく授業の細部に言及するのは避けつつ、其処で学んだことや考えたことを記していこうと思う。

 

「最低限度の生活とは」

日本国憲法で規定されている「~最低限度の生活」。以前の私は漠然と、此処での最低限度という言葉は生命維持が可能な程度の、というぐらいに捉えていた。しかし、実際、日本国憲法ではその最低限度の前に「健康で文化的な」という修飾語を付けている。健康でいて、文化的生活は、前述の「生命維持が可能な程度の」生活とはピッタリイコールではないだろう。しかし、健康ならまだしも「文化的生活」とは何なんだろうか。抽象的な言葉過ぎて、どこまでが文化的生活で、どこまでが文化的な生活ではないのかという明確な線引きは非常に難しい。

 

生活保護受給者はパチンコに行ってはいけないのか?」

・以前の私ならば、「当然行ってはいけない。生活に困窮しているのだから、パチンコ台はそちらに回すべきで、パチンコは余暇であり生命維持に直接影響しない」と思っていただろう。しかし、パチンコは文化的生活の一部とは言えないのだろうか。受給者にとって、パチンコが唯一のストレス解消法だとしたら?(まあ恐らく此処でだした例がパチンコというのが良くないのかもしれない。パチンコは、比較的日本社会ではあまり良いイメージを持っていない人間が多そうだし。これが、バードウォッチングとかなら周囲からの反応も変わるかも?)思うに、私が以前思っていた「生命維持が可能な程度」の暮らしというのは、その暮らしをする人をある種の緊張状態に置き、それは非常にストレスフルなものだと考えられる。そんなストレスフルな状態に置くのが、生活保護受給者に対する正しい処置には思えないと感じるようになった。

 

「アプリ―チしやすい人間にアプローチしてしまいがち」

・これは受講した授業の教授が言っていた言葉で、非常に印象深かった。この言葉の文脈は、研究や調査はアプローチしやすい人間に研究者や調査者がアプローチしがちであるといったものだった。確かに、例えば引きこもりの子どもや学校に通っていない子どもをアプローチするのは非常に難しいと感じる。しかし、教育政策においては、こういう最も支援を要する子どもにアプローチすることが重要なはずである。

私も大学院で学ぶ上で、アプローチしやすい研究対象だったらな、とよく思うことがある。しかし、本当に重要なのはアプローチのし易さではなく、その研究によって社会がより良くなることを目指すことだよな、と痛感したのでした。

 

「総括」

日本の貧困の深刻さ

 今回の授業を通して、やはり一番痛感したのは日本における貧困の深刻さである。特に、若者と高齢者の貧困率が非常に高い。

 個人的な経験として、私が身近に貧困の子どもがいると感じたのは人生で二度のタイミングである。一つ目は、公立小学校に通っていた時と、二つ目は大学学部生時代にしたアルバイトとボランティアをしていた時である。

一つ目の公立小学校では、確かに裕福ではない家庭出身の子どもがいた(小学校時代、明確な自我が生まれていない中でなんとなく「この子の家はお金が無いんだな」というのを察していた気がする)

二つ目は、大学学部生の時にしていたボランティアとアルバイトで、である。何故、公立小学校から大学まで飛躍するかというと、中学高等は私立に通っており今振り返って考えてもそこまで他と比べて家庭の経済環境に大きな格差を抱える子はいなかったように思う。(勿論私が思い出す限りでは、だが)

大学の学部は、今思うと相当経済的に裕福な層ばかりの学生が揃いに揃っていた。(学部生の時、ゼミの教授に『この大学に通う学生はプチブルプチブルジョワ)だ』と零していたことを未だに忘れられない)

そんな中、ボランティアとアルバイトを通して、ひとり親世帯の多さやその子達の多くは学業不振に陥っていること、学業不振が自己肯定感の低下を招いていること、家庭環境の悪さが学校への適応に悪影響を及ぼしていることを知った。それは、私にとって大きな衝撃だった。そして、今考えるとそれらは氷山の一角に過ぎないのだろう。世の中には、私が知らないだけで更なる貧困に苦しんでいる子どもは多く存在している(統計的数字が証明している様に)。

そして、同時に私はただただ「ラッキー」だったのだと感じた。私の家庭に全くの問題が無いという訳ではないと個人的には思うが、家庭にある程度の経済力があり、父母どちらも教育にそれなりに関心があるために、私は今日まで学校に通い学問を学び研究をすることが出来る。しかし、勿論出生は自分の力で決定することが出来ないから、もしかしたら私が貧困家庭に生まれ、今は高校卒業した後直ぐに就職する道をとっていた可能性だってあるのだ。

生まれない家庭は、誰も選べない。昨今は、家族や家庭を「美しいもの」だとして褒め称える言説をマスメディア等でよく散見する。しかし、家族や家庭は決して完璧なものではなく、上手く機能しない・しなくなる可能性を常に孕んでいる。そんな中で、そんな機能不全に陥った家族・家庭をサポートするべきなのが、行政を始めとする社会構成員なのではないかと思った。

Cool Head,Warm Heart.

 今回の授業を受け持っていた先生を見ていてこの先生は非常に「Cool Head,Warm Heart.」の持ち主なんだなあと感じていた。

研究者の社会的使命を明確に自覚し、社会的弱者に対する深い理解を持ち、なおかつ問題意識をもち、その頭脳をもってして精緻で正確な調査・分析・研究を行っているんだなと思った。

 私もこんな人になりたいなあと漠然に思った。時々、自分の将来の仕事等を考えて、「そもそも私は生きている間に一体何をしたいのだろう?」と思うことがよくある。それで、何となく、この日本社会がほんの少しでも良くなる為の一助になりたいなとしみじみ思ったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

米原万里「終生ヒトのオスは飼わず」

米原万里「終生ヒトのオスは飼わず」

出版社 文春文庫

2010年出版

 

生活が少し落ち着いてきたので、また何か本を読もうと思って自分の部屋にある本棚の前に立った。

そこで、目に入ってきたのがこの本だった。

米原万里の本は結構好きで、彼女の本は割と収集して本棚に収めてある。

久し振りに彼女の本をとったが、やっぱり相変わらず豊富な知識と冷静な分析批判と所々に散らばっている面白おかしい話に夢中になり、すぐに全部読んでしまった。

 

この本の大半は、著者である彼女が飼っているペットの犬猫たちの話。

私は一度も犬猫などのペットを飼った事はないが、それでも楽しく読むことが出来る。

そして、ペットを飼う間に挟み込まれている彼女の通訳家としての生活の話も面白い。

迫って来る国際会議を前に、何十冊もの本を読んでロシア語を頭に猛烈に詰め込んでいく様を見て

通訳って面白そうだけど何よりすげー大変そう…と閉口してしまう。

 

米原万里は、歯に衣着せず痛烈な批判をする人物でもある一方で、飼っているペットだけでなく他の犬猫たちを愛している様子を見ているととても愛情深い人物だったんだなあと感じる。

 

彼女の文体は活き活きとしていて、まるで今目の前で起きている事象をとても面白可笑しく上手く語っている。しかし、同時にこれらを語る彼女は既に11年前にこの世を去ってしまった事を思い出す。

この世を去って約10年も経っているのにも関わらず、この世に生きた痕跡を残せるってなんとも感慨深い事というか、凄い事だなあと個人的には思った。

 

以下、なるほどな~と思った部分だけを抽出して記載。

 

pp.204-205「要するに言語の使命は、決して美しく整っていることなんかではない。世の中の森羅万象、それに複雑怪奇な人の精神を描き出し、罵り、分析し、弾劾し、解釈し、批判し、祝福し、乗ろうためには、美しい言葉だけではとうてい間に合わないというもの。評判の悪い「ウザイ」「キモイ」「ムカツク」だって、今の若者たちのそういう心の状態をみごとに的確に表現しているではないか。そして、言葉にとっては、それこそが命なのだと思う」

p.206「でも、核武装を説く人たちの、あたかも核兵器さえ持てば、まるで魔法の杖みたいに、日本の国際的発言力や威信が増し、安全保障上の問題が一気に解決するみたいな口ぶりには首を傾げてしまう。中途半端な核武装がたどる悲惨な運命は、イラク北朝鮮で証明済みだし。」

 

 

 

 

村上春樹「スプートニクの恋人」

スプートニクの恋人

著者 村上春樹

講談社文庫

2001年 第一刷発行

 

 この本は確か、大学1年生の頃に村上春樹の小説を夢中で読んでいた頃に買ったんだと記憶している。

久し振りに読みたくなって、鞄の中に入れたら結局夢中になって読み終えてしまった(当初は電車に乗っている間の時間の有効活用のために読む筈だったんだけど)

 

以下、記憶に残しておきたいと思った作中の言葉

 

「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」

 すみれがフロッピーディスクに残した文書に綴られていた一節。

 この一節を読んで、「確かに」と思った。私達は、今までの自分達が得た経験や知識で私達の取り巻く世界を「理解」している訳だけれど(曲がりなりにも一応)、その理解が本当に正しいのかどうかは分からない。私が「理解」したと思ったことは、実は「誤解」なのかもしれない。また、現代に生きる私達が「共通理解」しているであろうと考えられているものも、実は「共通誤解」なのかもしれない。もっといえば、何億もの先人達が積み上げて来た「理解」の総体も(それが学術的なものにしろ、そうでないにしろ)実は「誤解」の総体なのかもしれない。

 最近、村上春樹の「国境の西、太陽の南」を読んだ時もこんな一節に目が留まった。

「あなたは私が考えていることを本当にわかっているの?」(確かこんな文章だったと思う)

 以上の二つの節を踏まえて、やっぱり、自分は何かを「理解」しているぞ、という傲慢さはきっと命取りなのだと思った。結局人間は基本的に1組の眼と、1つの脳しか所持していない。そんな不足でしかない身体で、世界の諸現象の真実を完璧に「理解」することは非常に難しいことなのだ。うんうん。

 

「大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ」

 主人公が、消えたすみれの行方を捜して頭の中で逡巡している時の一節。

 この一節を読んで「ううむ」と唸った(気分になった)。

 最近自分の知識不足を呪って、色々と本を読んでいたのだけれど。

 勿論本を読み知識を吸収することは非常に重要な一方で、そこで吸収しただけで「思考停止」状態に陥るのは意味の無いことだと改めて感じたのであった。大学院に入学してからというものの、自分に足りないと思うものを沢山感じるようになった。その内の一つが、「主体的に考えること」だった。私はあまりにも考えてなさすぎる、しかも主体的に。具体例を挙げていくと切りがないからここでは止めるが、今年の目標は日常生活のレベルから常によく考えるが私の目標の一つなのであった。

 

 村上春樹は私のお気に入りの作家の一人で、自分の部屋の本棚の一段は村上春樹の本で埋まっている(どれも文庫本で古本屋で100円くらいで買ったものばかり)。最近は本を読もうと思ったら大学の図書館で借りるばかりだったので、お金も特に払わない一方で自分の手元に置く本の数は圧倒的に激減した。そんな中で、家を出る際に「今日は何の本を電車の中で読もうかな」と思いながら自分の本棚の前に立って、今まで自分が読んできた本達を(またその本に付随する思い出或は歴史を)眺めるのも悪くないなと思った今日この頃なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

矢野久美子「ハンナ・アーレント」

ハンナ・アーレント

 

著 矢野久美子

中公新書 (2257)

初版 2014年

 

政治哲学者であるハンナ・アーレント(1906-1975)の生涯が分かりやすく1冊の本にまとめられた作品。

 

大学でハンナ・アーレントの「人間の条件」を読む勉強会が開催されるかもしれないということで。「人間の条件」はどうやら難しい本らしいし、それを読む前にハンナ・アーレントについて知れたらと思って購入したもの(実際は、本屋にぶらりと立ち寄ったら文庫コーナーで偶然的にパッとこの本が目に入ったので買ったのだけれど)。

 

[全体的な感想]

 まず、アーレントの人生に大きく関与していた存在があの有名なドイツ哲学者のハイデガーであること、そして彼女の人生に彼以上に関与していたのがカール・ヤスパースという存在がであることを知って素直に「へえ」と思った。

 個人的には、当時妻子持ちのハイデガーと学生であったアーレント恋物語がもっと知りたいなと思いつつ。

 本を読みながら、本の内容は1950年代ごろの話をしているのに「あれ、これは今の日本の話をしているのかな?」と思ってしまう所が結構あった。

 

[部分的に印象に残ったところ]

「とりわけ亡命ユダヤ人は「われわれのパンを奪う」不審な外国人として、メディアや大衆による排外主義的な言動にももさらされた(p.49)」

 

[作中に出てきて気になった本]

ハンナ・アーレント全体主義の起源」

 政治が全体主義に傾く要因を幅広い視点から分析して明らかにしたもの。

ハンナ・アーレントイェルサレムアイヒマン

 第二次世界大戦後、ナチでユダヤ人虐殺の指揮官にあったアイヒマンイェルサレムの裁判所で裁く、いわゆるイェルサレム裁判について扱ったもの。アイヒマンは人びとの想像するような「悪の権化」的な存在ではなく、実はただの「つまらない」男でありそんな男がユダヤ人虐殺を遂行していたことに対して問題関心が置かれている。

川島正樹「アメリカ市民権運動の歴史」

 アメリカで起こったリトルロック事件で、当時セントラル高校に入学した黒人学生の一人であるエリザベス・エッグフォードへのインタビューが載っている。

 

 

 

 

 

 

 

外山滋比古「思考の整理学」

外山滋比古「思考の整理学」

ちくま文庫

1986年第一刷発行

筑摩書房

 

 初外山滋比古作品(とやま・しげひこ)

 外山滋比古の名は以前から知っていたけど、漠然と随分と難しい本を書いているんだろうなというイメージを持っていた。けれど、この「思考の整理学」は意外にもそんなに難しいことは書いていなかった。

以下、自分が気になったところ

「グライダー」

 学校における教育形態(先生から教わり自分がそれに習う)に慣れ過ぎて、いわゆる自学自習というか主体的に学ぶ人間が少ないということを述べている内容。

 これは割とすごい共感していて、というか私自身が最近の目標として主体的に動く、を掲げているのでとてもリアルな感覚を持って「ふむふむ」と首を縦に振っていた。上の人、他の人から貰うことを前提にして、こちらがただ「あーん」と口を開けて待っているだけでは駄目なのだと再確認。

 

「朝飯前」

 要するに、朝活良いぜっていうお話。これも「うんうん」と首を縦に振った。朝の5時位は本当に集中して何かを片付けることが出来る。早く寝て、早く起きる。肌にも良いことだ。

 

「三上・三多」

三多とは、看多(多くの本を読むこと)故(+人偏)多(多く文を作ること)商良多(多く工夫し、推敲すること)が文章上達の秘訣三か条だということである。

 この本では、章立てを超えて多くの部分で「とにかく書くこと」について言及している。これは私も言われたことがある言葉で、ニュージーランドに居た時受けてた社会学の授業のTAに「とにかく考え過ぎないで書くこと」と何度も言われた。そっか、とりあえず書けばいいんだ。

 

 最後に、この本の最終章あたりを東海道線を乗りながら読んでいた時にふと思ったのが「自分はどう物事を考えているのだろう」ということである。つまり、ある物事Aを考えなければならない時、私はどうやってその物事Aについて考えているのだろう。ある種の体系づけられたプロセスや筋道を自覚的・無自覚的に辿って物事を考えているのだろうか(そうではない気がする)。もっと漠然と「えーっと、えーっと、ソクラテスは確か~うんと~」と考えている気がする。もしかしたら、もう少し考えるプロセスというものを気付いて、自覚的に体系づけることが出来たら、もう少し物事を「深く」「広く」考えられるのかもしれないなあなんて思った今日この頃。