筒井淳也「結婚と家族のこれから 共働き社会の限界」①
筒井淳也
「結婚と家族のこれから 共働き社会の限界」
光文社新書 2016年 第一刷発行
大学院の友人に薦められて、「面白そうだな~」と思ってアマゾンで即購入した本。
余談だけれど、この本を探しに割と大きな有名店の本屋に行ったら無くって。店員さんに「取り寄せたらどれくらいですか?」と尋ねると「まあ~水曜日(3日後)くらいですかねえ」と言われた。Amazon Primeに入会している私は、Amazonで購入すれば翌日に届くことを知っていたので、本屋で取り寄せはやめにしてAmazonで購入することにした。こういう事って、私以外の人でも割とありそうで今や本屋で「この本取り寄せしてくれませんか~?」ってことは激減しているのではないかと推測する。こういうのって、やっぱり本屋の収益減とかに繋がらないのかな、それとも本屋としてもこういう現状を鑑みて別の対策とかとってんのかな。
という訳で、以下本の内容を第三章から取り上げて、私が思ったことをぼちぼち書いていこうと思います。
第三章 「家事分担」はもう古い?
圧倒的不公平
ここでは、筆者が家庭における家事〈分担〉(筆者が引用つけているのでママ)の実証研究を紹介しています。つまり、家庭における家事〈分担〉はどの様に決定されているのか?というものです。先行研究では、その規定要因は2つあると言及していて、1つは時間、もう1つは経済力だそうです。(つまり、長時間労働に従事しやすい夫に比べてそうでないことが多い妻の方が時間的余裕があるので、家事をする。もう1つは、長時間労働に従事しているため経済力を持っている男性は家庭での仕事である家事を免れることが出来る。)
しかし、筆者は上記の2つの要因だけでは、日本の家事分担の不公平性を全て説明出来ていないと主張をしています。此処で私が一番衝撃的だったのは、筆者の調査によれば、
「夫がすべて稼いでいる状態から、稼ぎの額が夫婦同じである状態まで妻が稼ぐようになっても、平均的には夫婦間の分担はあまり変わらなかったのです。」(p.103)
ええ~~~変わらないんか~~い
筆者は次の「不公平の理由」という題の下で上記のことを説明する手を幾つか紹介しています。
①イデオロギー仮説というもので、つまり性別分業「妻が家庭のことをして、夫が仕事をしに稼ぎにいく」という考えに対して肯定的な人間が多いのではないかということ。
②筆者はここでアメリカにおける研究も紹介していて、そこでは「敢えて女性が家事を手放さない」ということだそうです。つまり、「女性が「家庭の責任者」としてのアイデンティティを維持したいがために、容易には夫の参画を認めない」(p.106)ということだそうな。
③男性が「敢えて家事をしないことで、その男性役割を維持しよう」(p.106)ということ。つまり、男性が家事をしないことは、男性のアイデンティティ形成に寄与するという。
まず、この②に関しては、最近私が見たニュースの記事を思い出しました。
これは、9月2日のyahooニュース配信のものですが、この記事の下の方では電車内で赤ちゃんを抱っこしている男性に対して、恐らく育児を既に経験した中年高齢女性がこう言うです。
「でもさ、やっぱり父親じゃダメね。お母さんだったら、あんな抱き方はしないはずだもの」(引用ママ)
悪魔で私個人の意見だけれど、上記の発言からは以下のことが考えられると思っています。1つは、「女性がする育児という領域から父親を排除した方が良い」とする考えをこの女性が無意識下にあるのではないかということ。此処で注意しなければならないのは、確かにこの記事で紹介されている男性の育児も少し「問題」があるという事です。この記事の先には、この父親が抱えている子どもに対して最大限の配慮が出来ていないという点が指摘されています。しかしそうだとしても、それは「この父親一個人」の問題であって、それなのにこの男性を見ていた女性は「父親全て」に一般化をしてしまっています。そこには、やはり強い性別分業意識、いや縄張り意識があって、「お前はここに入る素質はそもそも無いのだ」と言っているような気がしてならないのです。
もう1つは、上記のことから少し外れるが、この電車の光景はやはり男性の育児関与時間が未だ日本では少ないことを表しているのではないかということ。確かに、今までの日本では男性が子どもを電車の中で抱きかかえていて育児をしているなんてありえない光景でした。そこから考えると、やはり男性の育児参加時間は相対的には増加したことが言えるでしょう。しかし、この男性の子どもに対する配慮不足を見ていると、常日頃子どもに関与している時間が少ないことが起因しているのではないかと考えざるをえないのです。つまり、妻がいつもは面倒を見ていて、休日だから夫が面倒を見る(いや、良いとは思うんだけど!)。その全体的な育児参加時間の不公平性が(父親そのものの育児資格云々よりも)この夫の育児への配慮の無さを作りだしているのではないかと考えざるをえないのです。
次、③についても私が最近読んだ記事と関連があるかと思い、以下紹介します。
この記事ももんのすっごく面白くて、しかも今年9月13日に公開された超最新の記事。
この記事は、上記の「家事」「育児」とは異なり、「介護」に関するものです。
この記事は、男性がいわゆる社会学の用語でいう「ケア労働(家事・育児・介護)」に携わりたくないのかを「支配」という観点からの説明を紹介しています。此処では、簡単に言うと、妻に自分がしたくない「ケア労働」を押し付けたい、「任せたい」という支配の志向が存在することを言及しています。そして、アメリカの老年学者、トニ・カラサンティ氏の興味深い調査を紹介し、日本でいういわゆる亭主関白親父は、妻に「ケア労働」をさせることで、そして老後にはその妻を介護し自分が妻への完全な「支配者」となるということを紹介しています。
う~ん。こうしてみると、性別分業というイデオロギーがいかに人の中に落とし込まれているのかが分かる。やはり、こういうイデオロギーが、「家庭」「学校」「教育」「メディア」「会社」「社会」等を通して何度も再生産されることでこんなにも人の中から離れないものになっているのだろうか。
しかし、後半の方で触れた「支配」の構造は非常に興味深くて。これはむしろ、女性が男性を「支配」する力は何故存在しないのだろう?と思う。そこには、性別分業というイデオロギーというよりも、「社会が規定する男性性(男らしさ)」の方に原因があるのかしら。とか考えたり。
なぜ国は介入しないのか
次の題「なぜ国は介入しないのか」、現代のリベラリズム「公的世界を公平にすれば、私的世界も公平になるだろう」に対して、フェミニズム政治哲学者のスーザン.M.オーキンの主張「政府は公的領域には介入しているのに、私的領域には何故介入しないのか!(だからこそ、私的領域における不公平は維持されているのだ)」を紹介しています。
オーキンの言いたいことは分かるけれど、私個人の意見としては私的領域に国家が介入するのは断固反対です。家庭の在り方、個人的な意見、生き方、それらは悪魔で個人が自由の下に選択していくものであって、其処に「国家」が介入すると必ずや国家のコントロールしやすい「一元化した考え・思想」が押し付けられるのは容易に想像出来ます。しかも、日本の場合ではそもそも公的領域における不公平性に対して何の対処も施されていないのです。一部の動きを例外として、以前として異性愛を中心とした教育・メディア・行政(戸籍制度等)等々。まず公的領域から変わって出直してこいや。という感じ。
という訳で、これが第三章読んだ感想です。
湯浅誠ら「若者と貧困 いま、ここからの希望を」
「若者と貧困 いま、ここからの希望を」
編著 湯浅誠 上間陽子 冨樫匡孝 仁平典宏
2009年 初版発行
大学院前期の授業を振り返っていたら、いくつかの授業の資料にこの本が紹介されていたのでこの夏休みに読んでみようと思い、手に取ったのがこの本だった。
奇しくも(?)先日受けた授業と内容が合致している。
全体的な感想として、陳腐な言葉になるかもしれないが、私の目には中々映らない(映そうとしなかったのかもしれない)形で若者の貧困はこんなにも深刻になっているのだと感じた。
そういえば最近、母とニュースの話をしていて話がどんどん苛烈になっていった中で、母に言われた言葉を思い出す。「何故あんたは“下”の人のことをそこまで深刻に考える必要なんてないでしょ」といった言葉である。
一応前後には文脈があったわけで、文脈無しにこの言葉だけを抜き取るとあらぬ誤解が生まれるかもしれない。
この母の言葉には、彼女のある考えが内在している。
それをより具体的に言ってみると、いわゆる大企業に入れること、お金持ちになること、偏差値の高い大学に入ること、(そしてさらに彼女の考えの中では)そんな上記三つを満たした“良い”男を見つけるはこの世の中で“上”に属し、なおかつこれらは本人が“頑張ったから”手にした結果だというのだ。
言い換えれば、上記四つの反対は(例えば、中小企業に入る、貧乏、偏差値が低い大学に入る、いわゆる“ろくでもない”男と結婚するなど)、本人の努力を怠った結果であると結論付けることが多いのである。(しかし、改めてこう文字起こししてみると、とことん考え方だけはどこの時代の考え方だよ…と吃驚してしまう。母は一部、非常に化石のような考え方を持っているのだ)
さて、ここからがこの本の内容とつながる(はず)なのだが、
この日本社会は「本人の努力だけ」ではどうにも出来ないことがいくつも存在している。
この本の中で、派遣スパイラルに陥った男性のこんな言葉が載っている。
「自分なりに、がんばってきたつもりなんですけどね。もっとがんばらなきゃいけなかったのかな」(p.75)
そして、続いてその彼をリポートする著者の言葉がこうある。
「私自身も、取材開始当初当時はそう感じていなかったと言えば嘘になる。しかし彼のような若者たちのたどってきた人生をさかのぼると、自己責任とは言いがたい状況があるのではないか。」(p.76)
この本で、全体的に感じたのが、日本社会は性別ごとに非常に硬直的なライフコース(男:大学進学卒業→就業→定年 女:学校進学卒業→就業→結婚離職→専業主婦家事介護)が設定されていて、其処から外れたものは「異端」として排除される構造になっているということだ。
高校を中退したら、非正規雇用になったら、病気で会社を退職したら、夫と離婚したら…
例を挙げるときりがないが、そんな人生にいつ起こるか分からないハプニングに巻き込まれたとき、コースを外れて崖下まで転落していく。
そうではなくて、高校を中退しても、非正規雇用になっても、夫と離婚をしても、人間それぞれに最低限度の、そして少しでもゆとりのある生活を保障するべきだろう。
この本で、佐々木隆治は湯浅誠の貧困の定義を紹介している(p.158)。
「貧困とは、単にお金がない状態ではなく、人間関係や金銭的ゆとりや精神的ゆとりといった「溜め」を欠いた状態である」
貧困を脱却するために必要なのは、お金だけでなく人間関係の構築(具体的に、居場所とか)精神的なゆとりだということが、この湯浅の定義からいえるだろう。
しかし、単一的なライフコースの押し付けではなく、多様なライフコースを尊重しながら何重ものセーフティネットを張っていくのは、今後の日本社会で可能なのだろうか。少子高齢化のせいで、今後政府の税収は格段に減っていくはずである。
そんな苦しい財政の中で、今後どうやっていけばよいのか考えるのが目下の課題だろう。
米原万里「終生ヒトのオスは飼わず」
米原万里「終生ヒトのオスは飼わず」
出版社 文春文庫
2010年出版
生活が少し落ち着いてきたので、また何か本を読もうと思って自分の部屋にある本棚の前に立った。
そこで、目に入ってきたのがこの本だった。
米原万里の本は結構好きで、彼女の本は割と収集して本棚に収めてある。
久し振りに彼女の本をとったが、やっぱり相変わらず豊富な知識と冷静な分析批判と所々に散らばっている面白おかしい話に夢中になり、すぐに全部読んでしまった。
この本の大半は、著者である彼女が飼っているペットの犬猫たちの話。
私は一度も犬猫などのペットを飼った事はないが、それでも楽しく読むことが出来る。
そして、ペットを飼う間に挟み込まれている彼女の通訳家としての生活の話も面白い。
迫って来る国際会議を前に、何十冊もの本を読んでロシア語を頭に猛烈に詰め込んでいく様を見て
通訳って面白そうだけど何よりすげー大変そう…と閉口してしまう。
米原万里は、歯に衣着せず痛烈な批判をする人物でもある一方で、飼っているペットだけでなく他の犬猫たちを愛している様子を見ているととても愛情深い人物だったんだなあと感じる。
彼女の文体は活き活きとしていて、まるで今目の前で起きている事象をとても面白可笑しく上手く語っている。しかし、同時にこれらを語る彼女は既に11年前にこの世を去ってしまった事を思い出す。
この世を去って約10年も経っているのにも関わらず、この世に生きた痕跡を残せるってなんとも感慨深い事というか、凄い事だなあと個人的には思った。
以下、なるほどな~と思った部分だけを抽出して記載。
pp.204-205「要するに言語の使命は、決して美しく整っていることなんかではない。世の中の森羅万象、それに複雑怪奇な人の精神を描き出し、罵り、分析し、弾劾し、解釈し、批判し、祝福し、乗ろうためには、美しい言葉だけではとうてい間に合わないというもの。評判の悪い「ウザイ」「キモイ」「ムカツク」だって、今の若者たちのそういう心の状態をみごとに的確に表現しているではないか。そして、言葉にとっては、それこそが命なのだと思う」
p.206「でも、核武装を説く人たちの、あたかも核兵器さえ持てば、まるで魔法の杖みたいに、日本の国際的発言力や威信が増し、安全保障上の問題が一気に解決するみたいな口ぶりには首を傾げてしまう。中途半端な核武装がたどる悲惨な運命は、イラクや北朝鮮で証明済みだし。」
村上春樹「スプートニクの恋人」
著者 村上春樹
講談社文庫
2001年 第一刷発行
この本は確か、大学1年生の頃に村上春樹の小説を夢中で読んでいた頃に買ったんだと記憶している。
久し振りに読みたくなって、鞄の中に入れたら結局夢中になって読み終えてしまった(当初は電車に乗っている間の時間の有効活用のために読む筈だったんだけど)
以下、記憶に残しておきたいと思った作中の言葉
「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」
すみれがフロッピーディスクに残した文書に綴られていた一節。
この一節を読んで、「確かに」と思った。私達は、今までの自分達が得た経験や知識で私達の取り巻く世界を「理解」している訳だけれど(曲がりなりにも一応)、その理解が本当に正しいのかどうかは分からない。私が「理解」したと思ったことは、実は「誤解」なのかもしれない。また、現代に生きる私達が「共通理解」しているであろうと考えられているものも、実は「共通誤解」なのかもしれない。もっといえば、何億もの先人達が積み上げて来た「理解」の総体も(それが学術的なものにしろ、そうでないにしろ)実は「誤解」の総体なのかもしれない。
最近、村上春樹の「国境の西、太陽の南」を読んだ時もこんな一節に目が留まった。
「あなたは私が考えていることを本当にわかっているの?」(確かこんな文章だったと思う)
以上の二つの節を踏まえて、やっぱり、自分は何かを「理解」しているぞ、という傲慢さはきっと命取りなのだと思った。結局人間は基本的に1組の眼と、1つの脳しか所持していない。そんな不足でしかない身体で、世界の諸現象の真実を完璧に「理解」することは非常に難しいことなのだ。うんうん。
「大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ」
主人公が、消えたすみれの行方を捜して頭の中で逡巡している時の一節。
この一節を読んで「ううむ」と唸った(気分になった)。
最近自分の知識不足を呪って、色々と本を読んでいたのだけれど。
勿論本を読み知識を吸収することは非常に重要な一方で、そこで吸収しただけで「思考停止」状態に陥るのは意味の無いことだと改めて感じたのであった。大学院に入学してからというものの、自分に足りないと思うものを沢山感じるようになった。その内の一つが、「主体的に考えること」だった。私はあまりにも考えてなさすぎる、しかも主体的に。具体例を挙げていくと切りがないからここでは止めるが、今年の目標は日常生活のレベルから常によく考えるが私の目標の一つなのであった。
村上春樹は私のお気に入りの作家の一人で、自分の部屋の本棚の一段は村上春樹の本で埋まっている(どれも文庫本で古本屋で100円くらいで買ったものばかり)。最近は本を読もうと思ったら大学の図書館で借りるばかりだったので、お金も特に払わない一方で自分の手元に置く本の数は圧倒的に激減した。そんな中で、家を出る際に「今日は何の本を電車の中で読もうかな」と思いながら自分の本棚の前に立って、今まで自分が読んできた本達を(またその本に付随する思い出或は歴史を)眺めるのも悪くないなと思った今日この頃なのである。
矢野久美子「ハンナ・アーレント」
著 矢野久美子
中公新書 (2257)
初版 2014年
政治哲学者であるハンナ・アーレント(1906-1975)の生涯が分かりやすく1冊の本にまとめられた作品。
大学でハンナ・アーレントの「人間の条件」を読む勉強会が開催されるかもしれないということで。「人間の条件」はどうやら難しい本らしいし、それを読む前にハンナ・アーレントについて知れたらと思って購入したもの(実際は、本屋にぶらりと立ち寄ったら文庫コーナーで偶然的にパッとこの本が目に入ったので買ったのだけれど)。
[全体的な感想]
まず、アーレントの人生に大きく関与していた存在があの有名なドイツ哲学者のハイデガーであること、そして彼女の人生に彼以上に関与していたのがカール・ヤスパースという存在がであることを知って素直に「へえ」と思った。
個人的には、当時妻子持ちのハイデガーと学生であったアーレントの恋物語がもっと知りたいなと思いつつ。
本を読みながら、本の内容は1950年代ごろの話をしているのに「あれ、これは今の日本の話をしているのかな?」と思ってしまう所が結構あった。
[部分的に印象に残ったところ]
「とりわけ亡命ユダヤ人は「われわれのパンを奪う」不審な外国人として、メディアや大衆による排外主義的な言動にももさらされた(p.49)」
[作中に出てきて気になった本]
政治が全体主義に傾く要因を幅広い視点から分析して明らかにしたもの。
第二次世界大戦後、ナチでユダヤ人虐殺の指揮官にあったアイヒマンをイェルサレムの裁判所で裁く、いわゆるイェルサレム裁判について扱ったもの。アイヒマンは人びとの想像するような「悪の権化」的な存在ではなく、実はただの「つまらない」男でありそんな男がユダヤ人虐殺を遂行していたことに対して問題関心が置かれている。
川島正樹「アメリカ市民権運動の歴史」
アメリカで起こったリトルロック事件で、当時セントラル高校に入学した黒人学生の一人であるエリザベス・エッグフォードへのインタビューが載っている。
外山滋比古「思考の整理学」
外山滋比古「思考の整理学」
1986年第一刷発行
初外山滋比古作品(とやま・しげひこ)
外山滋比古の名は以前から知っていたけど、漠然と随分と難しい本を書いているんだろうなというイメージを持っていた。けれど、この「思考の整理学」は意外にもそんなに難しいことは書いていなかった。
以下、自分が気になったところ
「グライダー」
学校における教育形態(先生から教わり自分がそれに習う)に慣れ過ぎて、いわゆる自学自習というか主体的に学ぶ人間が少ないということを述べている内容。
これは割とすごい共感していて、というか私自身が最近の目標として主体的に動く、を掲げているのでとてもリアルな感覚を持って「ふむふむ」と首を縦に振っていた。上の人、他の人から貰うことを前提にして、こちらがただ「あーん」と口を開けて待っているだけでは駄目なのだと再確認。
「朝飯前」
要するに、朝活良いぜっていうお話。これも「うんうん」と首を縦に振った。朝の5時位は本当に集中して何かを片付けることが出来る。早く寝て、早く起きる。肌にも良いことだ。
「三上・三多」
三多とは、看多(多くの本を読むこと)故(+人偏)多(多く文を作ること)商良多(多く工夫し、推敲すること)が文章上達の秘訣三か条だということである。
この本では、章立てを超えて多くの部分で「とにかく書くこと」について言及している。これは私も言われたことがある言葉で、ニュージーランドに居た時受けてた社会学の授業のTAに「とにかく考え過ぎないで書くこと」と何度も言われた。そっか、とりあえず書けばいいんだ。
最後に、この本の最終章あたりを東海道線を乗りながら読んでいた時にふと思ったのが「自分はどう物事を考えているのだろう」ということである。つまり、ある物事Aを考えなければならない時、私はどうやってその物事Aについて考えているのだろう。ある種の体系づけられたプロセスや筋道を自覚的・無自覚的に辿って物事を考えているのだろうか(そうではない気がする)。もっと漠然と「えーっと、えーっと、ソクラテスは確か~うんと~」と考えている気がする。もしかしたら、もう少し考えるプロセスというものを気付いて、自覚的に体系づけることが出来たら、もう少し物事を「深く」「広く」考えられるのかもしれないなあなんて思った今日この頃。